戦国時代、関東の雄として君臨した北条氏は、武田信玄や上杉謙信、さらには今川義元といった名だたる武将たちと渡り合い、東国最大の勢力を築き上げました。しかし、その最後は呆気ないものだったと多くの人は思うかもしれません。堅城と名高い小田原城に籠城するも、豊臣秀吉率いる圧倒的な軍勢に包囲され、ついには滅びてしまったのです。
特に、大河ドラマ『どうする家康』では、秀吉に小馬鹿にされ、まるで取るに足らない戦国大名のように描かれてしまいました。しかし、北条氏政や氏直が暗愚だから滅びたのでしょうか? 実際には、北条氏が滅亡に至った背後には、複雑な外交や不運の連鎖がありました。
北条氏と今川氏は、戦国時代において数代にわたり姻戚関係を結び、強い結びつきを持っていました。今川義元の死後、今川氏真の正室である早川殿(北条氏康の娘)を通じて、今川氏は北条氏を頼りにしていました。しかし、桶狭間の戦いで義元を失った今川家は衰退し、その後を継いだのが徳川家康でした。

徳川家康は、自身の娘を北条氏直に嫁がせ、両家の同盟を強化しました。しかし、この婚姻の背景には、武田家滅亡後の旧領を巡る争い、すなわち【天正壬午の乱】がありました。武田家の滅亡により、徳川と北条は衝突を繰り返し、その関係は微妙なバランスの上に成り立っていたのです。
信濃の国衆である真田氏の存在が、この状況をさらに複雑にしました。真田昌幸は、武田氏滅亡後、北条氏と徳川氏の間を揺れ動き、その行動が北条氏を大いに失望させました。最終的に北条と徳川は和議を結び、両者の関係は一旦安定しましたが、この時点で北条氏の命運は大きく変わることとなります。

秀吉は、北条氏の背後を衝く佐竹義重と手を結び、北条氏を徐々に圧迫していきました。北条氏は徳川家康とともに秀吉との対決に備えましたが、家康が秀吉と和議を結んだことで、北条氏は孤立を深めていきます。さらに、天正17年(1588年)には、沼田領を巡る争いが勃発し、北条氏は真田の名胡桃城を攻め取るという愚行に出てしまいました。
これが、秀吉との全面対決、すなわち【小田原合戦】を引き起こす決定的な要因となったのです。

小田原合戦において、秀吉は関東の諸大名に豊臣大名としての選択を迫り、その圧倒的な軍事力で北条氏を屈服させました。結果、北条氏政と氏照は切腹し、氏直は高野山へ追放されました。北条氏直はその後、赦免されるも、わずか1年後に30歳で病死してしまいます。
北条氏の滅亡を振り返ると、氏政と氏直親子は決して暗愚ではなく、むしろ運が悪かったとも言えます。もしも早い段階で秀吉と直接交渉を進めていれば、もしも真田昌幸が北条氏に従属していれば、北条氏の運命は変わっていたかもしれません。しかし、そうした「もしも」は実現せず、北条氏は滅び去りました。
北条氏の運命は、まさに戦国時代の波乱万丈な運命そのものであり、不運の連鎖が重なった結果と言えるでしょう。それは、戦国時代に生きたすべての大名が直面した厳しい現実だったのです。
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