"質屋に出された夫の時計" 第1話
正1291、午1158分。
京の空にはまだの名残があった。神田のでは昼餉の支度が始まり、あちらこちらのから噌汁の匂いと薪の焦げる匂いが漂っていた。
30歳になる千代も、そのだった。
かまどのを見ながら米の具を確かめ、夕方には夫の信介が戻ってくることを考えていた。信介は本くにある建築会社「丸田組」に勤め、資材の検査を担当している38歳の男だった。
派なことを嫌い、毎朝決まった刻に起き、同じ革鞄を持ってていく。酒もほとんどまず、料には封筒をそのまま千代へ渡すような几帳面な夫だった。
その朝も、いつもと変わらなかった。
玄関で履を履いた信介は、懐計を度確かめてから革鞄へを伸ばした。
「今夜はし遅くなる」
「また仕事ですか」
「ああ。片づけたいことがある」
それだけ言うと、信介はていった。
千代は見送った、その言葉を特別気に留めなかった。
夫が仕事について詳しく話さないのは昔からだったからだ。
そして午1158分。
突然、面のから唸るような音がした。
最初の瞬、千代には何が起きたのか分からなかった。次の瞬、全体がきく横へ振られ、棚から皿がびし、かまどが崩れた。
「きゃっ……!」
柱につかまろうとしたが、っていられない。
井が軋み、瓦が落ちる音がから連続して聞こえた。
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隣から子供の泣き声ががり、誰かが「へろ!」と叫んでいる。
千代はを消すこともできず、玄関からうようにへた。
の通りは、瞬で別の町になっていた。
塀が倒れ、根瓦がを覆っている。柱が傾き、逃げ惑う々のを荷が倒れたまま塞いでいた。
そのうちくから煙ががり始めた。
「事だ!」
声がぶ。
昼だった。
くのでを使っていた。
に煽られた炎は、震で壊れた町をさらにみ込んでいった。
千代のに浮かんだのは信介だった。
「本へかないと」
へ戻って財布と拭いだけを掴み、歩きそうとした。
だが所の男に腕をつかまれた。
「駄目だ、千代さん! そっちはが回ってる!」
「でも夫が会社にいるんです」
「今ったって辿り着けない!」
には避難する々が溢れていた。
の方から来た者は「向こうは燃えている」と言い、別の者は「建物がみんな崩れている」と言った。
話も通じない。
も止まっている。
何が本当なのかも分からない。
千代は避難するの流れに押されながら、それでも何度も本の方を振り返った。
夕方。
所の寺が避難所になった。
境内には布団や荷物を抱えたが集まり、誰もが族の名を呼び続けていた。
が暮れかけた頃。
丸田組と取引のあった男が、寺へ駆け込んできた。
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「丸田組の建物が崩れたらしい」
千代はちがった。
「信介は?」
男は目を逸らした。
「分からん。にいた者が何もいるらしいが……」
「信介は?」
もう度聞いた。
「分からないんだ」
その晩、千代はほとんど眠らなかった。
翌朝。
のはまだ各でがっていた。
会社の者についてしずつ報が入ったが、信介の名は「所」のにあった。
誰も信介がくなったところを見ていない。
誰もその姿を確認していない。
それでも周囲はを揃えた。
「昨のでは、もう……」
「建物もあれだけ崩れたんだから……」
千代はその言葉を聞くたび首を横に振った。
「まだ分からないでしょう」
んだとは決まっていない。
信介は几帳面なだった。
何かあれば必ずらせる。
ただが塞がれて帰れないだけかもしれない。
怪をしてどこかの寺や学へ運ばれているのかもしれない。
千代は自分にそう言い聞かせた。
けれどが経つほど、は胸ので形を変えていった。
信介の最の言葉。
――今夜はし遅くなる。
あれは本当に、ただ仕事が遅くなるというだったのだろうか。
そして震災から2目の夕方。
避難先の寺へ、の男が千代を訪ねてきた。
所の質「伊勢」の主だった。
主は周囲を気にするように境内を見回し、それから懐からさな布包みを取りした。
「奥さん」
声を潜める。
「これ……信介さんの物じゃありませんか」
布がかれた。
の懐計が現れた。
千代の呼吸が止まった。