"預けた通帳が消えた日" 第9話
静は笑った。
あるの午、販売を終えて帰宅すると、弁護士から連絡が入っていた。
信託契約と寄付の続きが、すべて完したという。
静は窓辺に座り、温かいコーヒーをいれた。
のを、いカモメがんでいる。
通帳はもう、息子夫婦のにはない。
誰にも勝に奪われない所で、静のどおりに管理されている。
けれど、本当に取り戻したものはではなかった。
自分の事を選ぶ権利。
自分のを決める権利。
痛ければ病院へき、嫌なことには嫌だと言い、自分を粗末にするかられる権利。
それらは最初から静のものだった。
族という言葉に惑わされ、放していただけなのだ。
夕暮れになると、がに染まった。
静はき夫の写真を窓辺に置いた。
「あなた。私、ずいぶん回りしたわ」
写真のの信は、昔と変わらず笑っている。
「健を嫌いになったわけじゃないの。でも、あの子の母親であるに、私は私だったのね」
潮がカーテンを揺らした。
返事の代わりのようだった。
その夜、静は記をいた。
《誰かのためにきることは、美しい。けれど、自分を消してまで尽くすことは、ではない》
し考え、もうき加えた。
《通帳より先に、自分のをへ預けてはいけない》
ペンを置く。
窓のには、静かな空が広がっていた。
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数なら、で迎える夜を寂しいとっただろう。
今は違う。
でいられることは、孤独とは限らない。
自分を傷つけると同じ部にいる方が、ずっとい孤独になることもある。
静は灯りを消し、ベッドに入った。
くから波の音が聞こえてくる。
翌朝、目を覚ますと、は朝を受けて輝いていた。
静はしいに着替え、杖を持たずにへた。術を終えた膝は、もうほとんど痛まない。
へ続くを、歩ずつ歩く。
途で所の女性に声をかけられた。
「田さん、今はずいぶんいですね」
「ええ。魚を仕入れにくの」
「また蛮漬けを作るんですか?」
「今は息子が好きだった鯖のみそ煮にしようとって」
そう言ってから、静はしだけ笑った。
息子をいしても、以ほど胸は痛まなかった。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
ただ、憎しみに自分の残りを預けることをやめたのだ。
の入には、「しず商」の古い板が飾られていた。
そのをくぐる、静は夫の声を聞いた気がした。
――おかえり、静。
「ただいま」
静はさく答えた。
朝のには、々の声が満ちていた。
魚箱が置かれる音。
包丁がまな板を叩く音。
笑い声と、威勢のいい呼び声。
そのすべてが、静をきている世界へ迎え入れてくれる。
息子夫婦に預けたの先で、静がった恐ろしい真実。
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それは、していた族が自分のを待っていたことだった。
だが、その先にはもうつの真実があった。
歳でも、を取り戻すには遅くない。
裏切られても、はもう度てる。
失ったものを数え続けるのではなく、残されたを自分のへ取り戻せる。
静は仕入れた魚を抱え、朝のを歩き始めた。
その取りは、かつてより遅い。
けれど、歩歩は確かだった。
今度こそ誰にも預けない、自分自のへ向かう音だった。
それから半が過ぎた頃、静のもとへ健からさな荷物が届いた。箱のに入っていたのは価な品物ではなく、古びた魚用の刃包丁だった。
《藤沢のを片づけた、父さんの具箱から見つけました。本当はもっとく返すべきでした。勝に持っていたことも、今まで黙っていたことも、すみません》
には、それだけがかれていた。
静は包丁を聞から取りした。柄にはいくつもの傷が残り、刃もし錆びていたが、違いなく信が使っていたものだった。できな鰤をさばく、夫はいつもこの包丁を使っていた。
「こんなところにあったのね」
懐かしさに胸がくなったが、静はすぐに健へ話しなかった。包丁を研ぎにし、戻ってきたものを「しず商」の板のそばへ飾った。
健の謝罪を受け入れるかどうかと、いを切にすることは別だった。静はもう、どちらか方を選ばなければならないとは考えなかった。
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