"二十七年目の嘘" 第9話
美智子は膝のに置いた提げ袋から、茶いファイルを取りした。
表に「M」とかれた、夫の引きしの奥にあったものだ。
「野さん。今お伺いしたのは、その展示について、しお話ししたいことがあったからです」
「展示について……ですか?」
美智子はファイルをき、から黄ばんだ古い企画と、数枚の写真のコピーをテーブルに並べた。
「これは、私が代のころにいた企画です」
野はきょとんとした顔でそれを見つめ、やがて線を落とした。
『暮らしの跡を撮る』
その表の文字と、並べられた写真の数々。
使い込まれたまな板、のついた子供の靴、すり減った敷居。
野の表が、見る見るうちに張っていった。
「これは……」
「主がにがけた『暮らしたが、になる』というキャンペーンの元になったものです」
美智子の声には、りも非難もなかった。
ただ事実だけを、平坦な言葉で置くように語った。
「主は私のこのノートを見て、企画の着を得ました。そのことを、社内でお話しされていたことはありますでしょうか」
野は額に汗を浮かべ、何度も類と美智子の顔を往復して見た。
「い、いえ……私の記憶する限りでは、也さんはご自のご庭での実体験からまれたアイデアだと……」
「そうですね。主らしいといます」
広告
野はじろぎ配慮するように言葉を選んだ。
「奥様。これは……その、盗作だと会社を訴えたい、ということでしょうか。銭な補償や、公式な謝罪をお求めなのでしょうか」
企業の法務や広報が真っ先に警戒する問いだった。
美智子は静かに首を横に振った。
「おも、謝罪も求めていません」
「では……」
「主の名を、展示から消してほしいわけでもありません」
美智子は野の目をまっすぐに見つめた。
「主がこの企画を会社に通し、形にし、くののをかしたことは、主の仕事です。そこを否定するつもりはありません。ただ――」
美智子は、自分の古い企画を指先でそっと押さえた。
「私の名も、なかったことにしないでほしいのです」
野は息を呑んだ。
「原案ノートを作成したのは佐伯美智子であると、展示の片隅に、だけでいいのでき添えていただけないでしょうか。展示ケースの片隅に、このノートを緒に並べていただけないでしょうか」
野は腕を組み、く考え込んだ。
部のに、壁掛け計の秒針の音だけが響いた。
「……奥様。お気持ちは痛いほど分かります。ですが、これはもの社内表彰に関わる案件です。会社の公式な歴史として記録されているものに、今さら個の名を追加するとなると、役員会の承認が必になります。
広告
也さんの名誉にも関わってきますし……正直、例がありません」
例がない。
組織が個の声を押し戻すときに、いつでも使う便利な言葉だった。
美智子はちがった。
「例がないのはじております。ですが、私のにも例はありませんでした」
野が顔をげた。
「結果がどうなっても、私は構いません。ただ、この事実を社内のどなたかにでもっておいていただきたかったのです。これらは置いていきますので、ご覧になってみてください」
美智子は々と礼し、応接のドアノブにをかけた。
「奥様」
野が背から呼び止めた。
振り返ると、野は机のの黄ばんだノートを見つめたまま、ぽつりと言った。
「……本当に、素らしい点の企画ですね」
その言葉だけで、美智子の胸の奥のたい塊が、ほんのしだけ溶けたような気がした。
「ありがとうございます。代の私が、番んでいるといます」
美智子は微笑み、会社をにした。
そのの夜、美智子が自宅で、簡単な夕を済ませたときだった。
インターホンが鳴った。
玄関のモニターを見ると、真由がっていた。
輔の姿はなく、だった。
玄関のドアをけると、真由は俯いたままっていた。
たい夜が、真由の肩をさく震わせている。
「……入っていい?」
さな声だった。
数に声を張りげててったときとは、まるで別のようだった。
「寒かったでしょう。入りなさい」
美智子は玄関に迎え入れ、居のヒーターをつけた。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0 -
完結第23話
父の逝った夜の車
父が亡くなって十八年、独身の伯父は私達三兄妹を支え続け、兄の就職も姉の結婚資金も工面してくれた。家族全員が恩人と慕う中、末っ子の私だけが幼い頃から伯父と二人きりを拒み、性格のせいだと呆れられていた。二十八歳のある日、会食の席で伯父が私の椅子を引いてくれた瞬間、鍵のかかっていた記憶が甦る。十八年前の嵐の深夜、泥まみれの母が一度だけ家に戻った時、街灯もない門前の暗闇で消灯したまま待っていたのは、伯父の車だった。兄弟姉妹|真実|親子関係|修羅場3.4万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 0 -
完結第12話
午前五時の朝餉
母・加奈子を理不尽に追い出して七日目の朝。二重ロックで施錠されたはずの台所で、炊飯器のランプが黄色く灯っていた。「保温:28分」。蓋を開けると、湯気を立てる筍ご飯と、包丁立てから消えた一番重い三徳包丁。電源を抜いても、暗証番号を変えても、毎朝午前五時に届き続ける温かい米。やがて米の底から現れた“ある金属片”を境に、父と祖母の顔から血の気が引いていく。母はどこから入り、この家で何を見つめているのか。因果応報|嫁姑|真実|修羅場1.8万字5 0 -
完結第12話
左足だけの靴箱
隣室の吉岡さんが部屋で亡くなった。付き合いのなかった老人の遺品整理に立ち会った彩香は、業者から「故人の遺言」として段ボール箱を手渡される。中に入っていたのは、彩香が過去5年間に自宅の玄関から消えたはずの「左足の靴」12足。そして、それと対になる新品の右足の靴。靴底をめくると、そこには夫が「深夜残業」と偽っていた日付のタクシー領収書が隠されていた。妻が知ることになる、5年前の事故と夫の病的な贖罪の真相とは。ミステリー|夫婦1.8万字5 0