"午前五時の朝餉" 第9話
「来たら、どうする気なの」
志保が掠れた声で聞いた。
目の周りは赤く腫れがり、指先は刻みに震え続けている。
「どうもしない」
健は壁に背を預け、腕を組んだままく言った。
「パントリーの隠し扉は、さっき側からネジで完全に打ち付けた。窓の鍵も全部にした。玄関の暗証番号もリセットした。部から入るルートはつもない」
「でも、あの子は鍵を持ってるかもしれないじゃない!」
「子錠のログは俺のスマホで管理してるんだよ! 番号をらない奴がけられるわけがない!」
健は鳴りつけたが、その声の震えを隠すことはできなかった。
加奈子がどうやって入り込んでいるのか、論理な説がつかないことこそが、最の恐怖だった。
換気ダクトから入るにははきすぎる。
も、井裏も、確認した。
どこにも隙などないはずだった。
「健」
志保がを乗りし、濁った目で息子を見げた。
その声は、湿り気を帯びて気が悪かった。
「……もし、入ってきたら」
「あ?」
「棒よ」
志保の乾いた唇が歪んだ。
「婚した女が、夜に勝にのに侵入してきたのよ。暗がりので、には包丁を持ってたの。私たちがを守るために、で元にあったもので殴りつけたって……正当防になるでしょう?」
健の背筋を、本物の悪寒が駆け抜けた。
広告
母親の顔を見た。
皺の刻まれた老いた顔に、むきしの本能が張り付いていた。
、父親が胸を押さえて転げ回っていたも、この女はこんな顔をしていた。
『救急はまだ駄目よ。健、しい保険の類はどこ?』
救いようのない業のさが、このの血には流れているのだ。
健は胃の底からせりがってくる吐き気を必でみ込み、線を逸らした。
午。
台所には、蔵庫のコンプレッサーがく唸る音だけが響いていた。
健は何度も壁掛け計を見げた。
針が、拷問のように遅い速度で円を描いていく。
午。
窓のが、濃紺からみ始めたのグラデーションへと移り変わる。
「……来ないじゃない」
志保が堵の混じったため息を漏らし、燭台を握るの力をし緩めた。
「脅しよ。あの女、私たちを怖がらせて面がってるだけなんだわ」
「油断するな」
健は鋭く言ったが、内では同じことを考えていた。
防犯カメラも切断されていない。
子錠のセンサーも反応していない。
加奈子のハッタリだったのだ。
携帯のストレージを隔消されたのは事実だが、バックアップの部は会社の庫にある付けハードディスクに残っている。
弁護士を雇い、加奈子の正アクセスと名誉毀損で訴え返せば、まだやりようはあるはずだった。
広告
午分。
あと分で、加奈子が予告した「朝」になる。
健はきく息を吐き、張った肩を回した。
「母さん、湯でも沸かせ。し落ち着こう」
「そうね……そうするわ」
志保がちがり、シンクへ向かって歩きした。
その瞬だった。
カチャリ。
静まり返った台所に、質でさな属音が響いた。
志保のが止まった。
健の全の筋肉が直した。
音のどころは、シンクの横。
昨、志保がに叩きつけ、健がしいものに取り替えるもなく、ただプラグを抜いて隅に放置されていたはずの、古い炊飯器だった。
プラグは、垂れがったままだった。
コンセントには刺さっていない。
それなのに。
液晶画面の横にある、赤い丸型のLEDランプ。
【炊飯】
そのさな赤いが、の目ので、鮮やかに点灯した。
「ひっ……!」
志保が喉を鳴らし、ずさりして器棚に背を激しく打ちつけた。
並んでいた皿がカチャカチャと音をてて揺れる。
健は目を剥いた。
源プラグは、違いなく宙に浮いている。
壁のコンセントの穴は空いたままだ。
それなのに、炊飯器の内部から、く微かなファンモーターの回転音がちり始めた。
ブーーン、という規則な駆音。
「うわああああっ!」
健は理性を失い、雄叫びをげながら調理台へびかかった。
に持っていたバールを振りげ、炊飯器の蓋目掛けて叩きつけようとする。
だが、その瞬、プシューーーッという圧の蒸気が、蒸気から勢いよく噴きした。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 0 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 0 -
完結第22話
恩人弁護士の不可解な書類
満員電車の切り取り動画で炎上し、派遣先を不当解雇された私を、着手金ゼロで救ってくれたのは小さな事務所の弁護士だった。彼の尽力で示談を勝ち取り日常を取り戻した二ヶ月後、私は元上司のパワハラを訴えた見知らぬ後輩の裁判資料を目にする。そこには、私が弁護士の相談室で泣きながら話したはずの告白が、そのまま証拠として並んでいた。震える手で開いたその裁判記録の送達先には、私を救った恩人弁護士の事務所名が記されていた。職場逆転|因果応報|裡切られた|怒り3.4万字5 0 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0 -
完結第23話
父の逝った夜の車
父が亡くなって十八年、独身の伯父は私達三兄妹を支え続け、兄の就職も姉の結婚資金も工面してくれた。家族全員が恩人と慕う中、末っ子の私だけが幼い頃から伯父と二人きりを拒み、性格のせいだと呆れられていた。二十八歳のある日、会食の席で伯父が私の椅子を引いてくれた瞬間、鍵のかかっていた記憶が甦る。十八年前の嵐の深夜、泥まみれの母が一度だけ家に戻った時、街灯もない門前の暗闇で消灯したまま待っていたのは、伯父の車だった。兄弟姉妹|真実|親子関係|修羅場3.4万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0