"母は死んだと書いた娘" 第6話
それは、私に対する悪ではなかった。 父親が力づくでめようとする「実母の完全なき」に対する、あの子の痛な拒絶の叫びだったのだ。 法律ので私を「母親」にしてしまえば、くなった実の母親のが、このから、そして葵のから完全に消しられてしまう。 そうい詰めた女が、自分の尊厳とき母の記憶を守るために選んだ段が、「継母のを抹殺すること」だったのだ。
「……康平さん」 私は震える唇をいた。 「あなた、葵に何を言ったの? 先週、あの子に何て言ったの?」
「あ? だから言った通りだよ。『来には朋代が正式におの母親になる。ぐずぐず言ってないで諦めろ』ってな」 康平は忌々しそうに吐き捨てた。 「あいつのあの調査票は、俺への当てつけだ。俺を困らせるために、わざとおを巻き込んであんな嘘をいたんだよ。本当に、誰に似たんだか……」
その、リビングの引き戸が、静かにいた。
そこに、葵がっていた。
部着のスウェット姿のまま、葵はドアの縁に指をかけ、青い顔で私たちを見つめていた。 その瞳は、り狂う父親を捉えてはいなかった。 テーブルのに置かれた『養子縁組届』と、それをにち尽くす私だけを、じっと見つめていた。
線が交差する。 葵の瞳の奥に浮かんでいたのは、軽蔑でも反抗でもなかった。
広告
それは――すべてを諦めたが浮かべる、絶対零度の絶望だった。
「葵……」 私が歩を踏みそうとした瞬、葵はく息を吸い込んだ。
「やっぱりね」
氷のように乾いた声が、静まり返ったリビングに落ちた。
「朋代さんも、お父さんとグルだったんだ」
「違うの、葵、私は今これをって――」
「嘘つき」
葵の瞳から、すっとが消えた。 彼女はそれ以何も言わず、踵を返して廊のへと消えていった。 再び響いた自のドアの音と、い鍵の音。
、私が丁寧に、壊さないように積みげてきたはずの族という名の砂のが、元から音をてて崩れっていくのを、私はただ呆然と見つめることしかできなかった。
「朋代さんも、お父さんとグルだったんだ」
昨夜、リビングの引き戸の隙から葵が落としたその言葉が、晩、私の鼓の裏側でたい針のようにチクチクと刺さり続けていた。
もできないまま迎えた朝の空気は、吐く息がくなるほどえ込んでいた。 計の針は午半を指している。 私はい体を起こし、たいで顔を洗ってから台所にった。
何があっても、朝の活を止めるわけにはいかなかった。 それが、母親でも何でもない私が、こので自分のを辛うじて肯定するための唯の術だったからだ。
フライパンにをつけ、油をく引く。
広告
卵をつ割り入れ、だしと、ほんのしの砂糖を加える。 葵が好きな、甘さ控えめの汁巻き卵だ。歳の頃、初めてこのに来た朝、緊張で喉を通らなかった葵が、この卵焼きだけは「美しい」とさく呟いてべてくれた。以来、、何百回と焼き続けてきただった。
隣のコンロで鮭の切りを焼き、茹でたほうれんに胡麻をえる。 段ねの曲げわっぱの弁当箱に、炊きてのご飯を詰め、おかずを彩りよく詰めていく。
「おい、朋代。昨の話だがな」
背から、嫌そうな康平の掠れた声がした。 振り返ると、康平は寝癖のついたを乱暴に掻きながら、ダイニングチェアを引いてどっかりと腰をろしたところだった。テーブルのには、昨夜私が叩きつけたあの茶封筒――『養子縁組届』が入ったままの封筒が、まだそのまま置かれていた。
「俺は違ったことは言ってないからな」 康平は私の顔も見ずに、え切った麦茶を喉へ流し込んだ。 「葵の将来を考えたら、戸籍をきちんとしておくのが筋だ。推薦の願だって、両親揃っている庭の方が印象がいいに決まってる。おだって、いつまでも『お父さんの再婚相』なんて宙ぶらりんなでいたくないだろ。世から見たら、何も同居しておいて籍も入れないなんて、それこそ訳あり庭だとわれるぞ」
フライパンを握る私のに、自然と力がこもった。 油がパチリとね、の甲をかすかに焼く。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 73 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第22話
恩人弁護士の不可解な書類
満員電車の切り取り動画で炎上し、派遣先を不当解雇された私を、着手金ゼロで救ってくれたのは小さな事務所の弁護士だった。彼の尽力で示談を勝ち取り日常を取り戻した二ヶ月後、私は元上司のパワハラを訴えた見知らぬ後輩の裁判資料を目にする。そこには、私が弁護士の相談室で泣きながら話したはずの告白が、そのまま証拠として並んでいた。震える手で開いたその裁判記録の送達先には、私を救った恩人弁護士の事務所名が記されていた。職場逆転|因果応報|裡切られた|怒り3.4万字5 0 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0