"母は死んだと書いた娘" 第18話
横浜を過ぎ、内アナウンスが京駅の到着を告げた、葵がさくじろぎをして目を覚ました。
「……朋代さん」
寝起きの掠れた声で、私の名を呼んだ。 『お母さん』ではない。けれど、昨までの拒絶に満ちた刺々しさは、その響きのにミリも残っていなかった。
「もうすぐ着くよ、葵。喉、渇いてない?」
私が差ししたお茶のペットボトルを、葵は両で受け取った。 「ありがとう」と、さく呟く。 キャップをけてみ、彼女は袋をもう度く抱きしめ直した。
「……お父さん、ってるよね」
「ってるでしょうね」 私は葵の目を見つめ、隠さずに言った。 「事な模試をすっぽかして、静岡まで逃げたんだもの。世体や体裁を何より気にするだから、自分のい通りにならなかったことに苛っているはずよ」
葵はく唇を噛んだ。その端を噛む癖は、歳の頃から変わっていない。
「怖い?」 私が尋ねると、葵はしの俯き、それからさく首を横に振った。
「ううん。……は、怖かった。お父さんに鳴られるのも、失望されるのも、お母さんのいを全部捨てろって言われるのも、全部怖くてたまらなかった。でも……」 葵は顔をげ、私をまっすぐに見つめた。 「今は、朋代さんが緒にいてくれるから。私、ちゃんとお父さんに言う。逃げないで、全部言う」
その澄んだ瞳のに、もはや迷いはなかった。
広告
私は葵の細い肩にそっとを置き、優しく頷いた。
「ええ。丈夫よ。私が、絶対にあなたをにはしないから」
京駅から私鉄を乗り継ぎ、自宅の最寄り駅に着いたのは、夜のを回った頃だった。 え切った夜が、の残った葉をカサカサと揺らしている。 宅の坂を並んで歩きながら、私は葵の歩幅にわせてゆっくりとを運んだ。 並んで歩くのは、ぶりかもしれない。 いつのにか葵の背丈は私の肩を越え、すっかりの女性の骨格にづいていた。
やがて見えてきたがは、階のリビングの窓から、異様なほどるいが漏れていた。 玄関のドアのにつ。 葵が瞬だけ息を呑み、袋を抱えるに力を込めた。 私は彼女の背にそっとのひらを添え、鍵を差し込んだ。
「ただいま」
い引き戸をけると、玄関ホールには充満したタバコの煙の匂いが漂っていた。 普段、のでは決してタバコを吸わない康平が、換気扇も回さずに吸い殻を溜めている証拠だった。
ドタドタと、威圧な音が廊をづいてくる。 リビングのドアが勢いよくかれ、康平が姿を現した。
充血した目。ネクタイを緩め、ワイシャツの袖をまくりげた姿。 その顔には、丸待ちぼうけをわされた男の、鬱屈したりと焦燥がドス黒く渦巻いていた。
広告
「……帰ってきたか」
康平の声はく、をうように濁っていた。 彼の線は、私の背につ葵へと突き刺さる。
「葵、お、自分が何をしたか分かってるのか!? 模試の推薦枠はどうなる!? 学の先にどれだけをげたとってるんだ! 親戚がどれだけ配したか……!」
「康平さん、座りましょう」 私は葵のに歩踏みし、康平の声を遮った。 「玄関先で鳴り散らしても、何も解決しないわ。リビングで、ちゃんとで話しましょう」
「話すことなんかない!」 康平は唾をばした。 「こいつが勝な真似をして、族のを乱したんだ! まず親に向かって座して謝るのが先だろうが!」
「誰が、族のを乱したって?」
私のえ切った声に、康平は瞬言葉を詰まらせた。 私の目は、かつて彼が「従順で扱いやすい妻」として見していたのを、完全に失っていた。 絶対零度の静けさを湛えた私の線に気圧されたのか、康平は忌々しそうに舌打ちをし、踵を返してリビングのソファへと戻っていった。
「……がれよ。言いたいことがあるなら、聞いてやる」
私と葵は靴を脱ぎ、リビングへと入った。 ダイニングテーブルのには、皿代わりにされた空き缶と、み干されたビールの缶が何本も転がっていた。 そして央には、康平がわざわざしくコンビニでコピーしてきたのであろう、真っな『養子縁組届』の用が、ペンと共に置かれていた。
「葵」 康平はソファにく腰掛け、父親としての権威を取り戻そうとするように腕を組んだ。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 73 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第22話
恩人弁護士の不可解な書類
満員電車の切り取り動画で炎上し、派遣先を不当解雇された私を、着手金ゼロで救ってくれたのは小さな事務所の弁護士だった。彼の尽力で示談を勝ち取り日常を取り戻した二ヶ月後、私は元上司のパワハラを訴えた見知らぬ後輩の裁判資料を目にする。そこには、私が弁護士の相談室で泣きながら話したはずの告白が、そのまま証拠として並んでいた。震える手で開いたその裁判記録の送達先には、私を救った恩人弁護士の事務所名が記されていた。職場逆転|因果応報|裡切られた|怒り3.4万字5 0 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0