"父の逝った夜の車" 第3話
掛け布団を先まで引きげ、目をつぶってを澄ませていた。
やがて居の話が鳴った。 ジリリリリ、とけたたましいベルの音がに響いた。
母がりに話へ向かう音がした。
「はい、沢渡です……え? あ、はい……はい」
受話器を握る母の声が、次第に張っていくのが分かった。 い沈黙のあと、母のから、今までに聞いたこともないような甲い鳴が漏れた。
「そんな……嘘でしょう?! だって、正彦さんは今、非番だったはずじゃ……! もしもし? もしもし?!」
受話器がガチャンと乱暴に置かれる音がした。 続いて、母が畳のにへたり込むような鈍い音がした。
私は布団からいし、襖の隙から居を覗いた。 母は両でを押さえ、信じられないものを見るような目で宙を見つめていた。呼吸が過呼吸のように乱れ、肩が激しく波打っていた。
「お母さん……?」
私が声をかけると、母は弾かれたように私を振り返った。 その顔はのように真っで、瞳孔が異常なほど見かれていた。 普段の、優しくて穏やかな母の顔ではなかった。
「千鶴、寝てなさい。いいから、お布団に入って目をつぶってなさい!」
鳴るような声だった。 母にそんな声で鳴られたのはまれて初めてだった。 私は怯えて布団に戻り、まで毛布を被った。
それからもなくして、母は濡れたレインコートを羽織り、をびしていった。
広告
玄関の引き戸がバタンと閉まる音がして、私は暗いのにたった取り残された。階で寝ている姉を起こすべきか迷ったけれど、母のあの形相が怖くて、指本かすことができなかった。
計の針のむ音と、の嵐の音だけが響いていた。 が過ぎ、が過ぎた。
夜を回った頃だった。
のの砂利に、が滑り込んでくるいエンジン音が聞こえた。 「ヴォォォン……」とくぐもった、しマフラーの傷んだような排気音。
父が帰ってきたのだとった。 私は堵して布団から起きがり、居のかりを点けずに、玄関へと向かった。
ガチャリ、と鍵のく音がして、玄関の戸が勢いよくいた。
吹き込んできた激しいと緒に、母が滑り込んできた。 母はレインコートを着ていなかった。 着ていたカーディガンもスラックスも、まるで川にび込んだかのようにずぶ濡れで、髪の毛がのように顔に張り付いていた。 そして何より異常だったのは、その元だった。 靴を履いていなかった。まみれの靴のまま、玄関のたたきを越えて、廊にがってきたのだ。
「お母さん……?」
私が暗から声をかけると、母はさく「ひっ」と喉を鳴らし、臓を押さえた。
「ち、千鶴……起きてたの」
母の歯の根が、ガチガチと音をてて噛みっていなかった。
広告
寒さのせいだけではない。何かに激しく怯え、震えていた。 その首や腕には、とも擦り傷ともつかない赤黒い汚れがべったりとついていた。
母は私を抱きしめたり、宥めたりすることはしなかった。 私の脇をすり抜け、同然ので居へ駆けがると、仏壇の横にある古い製のチェストの番の引きしを、力任せに引き抜いた。
「どこ、どこにあるの……あった、これ……」
母は引きしのを畳のにぶちまけた。 通帳、帳、保険証、そして父の実印が入った黒いさな革ケース。 母は震えるでそれらをかき集め、台所にあったビニール袋に乱暴に詰め込んだ。 そのつきは、まるで何かに追われているのようだった。
「お母さん、お父さんは? お父さんどうしたの?」
私が泣きそうになりながらすがりつくと、母はち止まり、私の両肩を痛いほどく掴んだ。 母の濡れたから、たい滴が私のパジャマにぽたぽたと落ちた。
「千鶴、よく聞きなさい」
母の目は異様に充血し、焦点が定まっていなかった。
「誰が来ても、何も喋っちゃダメ。誰もに入れちゃダメよ。美咲にも、健にも……今のことは何も言わないで」
「お母さん……?」
「いいこと? お父さんは……お父さんは、いところへったの。事故に遭ったの。だから、千鶴は何も見なかった。お母さんが戻ってきたことも、何もかも。
分かったわね?!」
母の鬼気迫る表に、私は声がず、たださく頷くことしかできなかった。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 73 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 0