"父の逝った夜の車" 第12話
私が声をかけると、伯父はびくりと肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。 暗がりので目を細め、やがてその濁った瞳が驚きに見かれた。
「……千鶴ちゃん?」
伯父は慌ててタオルでを拭き、元のおがくずを払いながら歩み寄ってきた。
「どうしたんだい、急に。健から何か聞いたのか? 会社は……今は仕事じゃないのか」
「休を取りました」
私の声は、自分でも驚くほどたく響いた。 伯父はその声のさに気づいたのか、伸ばしかけたを所なさそうにろし、困ったように眉をげた。
「そうか……まあ、ち話もなんだ。事務所へ入りな。お茶くらいしかせんが」
作業の隅にベニヤ板で仕切られた、わずか畳ほどの事務所兼休憩があった。 パイプ子が脚と、油で黒ずんださなスチール机。 部の隅には万が敷かれ、汚れたせんべい布団のに、みかけのペットボトルのと、何種類もの薬のアルミシートが無造作に散らばっていた。 台所はない。さな気ケトルと、箱買いされた売りのカップ麺が積まれているだけだった。
兄が言っていた通りだった。 伯父は、自宅を引き払い、この油まみれの狭い部でで暮らしていたのだ。
伯父はケトルにを入れようとしたが、私はそれをで制した。
「お茶はいいです。話をしに来ただけだから」
広告
「……そうかい」
伯父はパイプ子をつ引き、私に勧めた。 居酒のと同じ仕だった。けれど今の私には、その親切が胸を鋭くえぐる刃のようにじられた。 私は座らず、ったままトートバッグのファスナーをけた。
机のに、枚のを並べた。
枚目は、図館でコピーしてきたの聞記事。 枚目は、松田モータースで見せてもらった、ブレーキ備保留の記録。 そして枚目は、実の裁縫箱の底から見つけした、母の未投函のだった。
伯父の線が、机ののへと落ちた。
聞記事の『備良の無も含め』という文字を見た瞬、伯父の顔から血の気が引いていった。 そして、母のいた『子どもたちにだけは、父親が名誉なに方をしたとわせてはならない』という文字を捉えた、伯父の唇が微かに震え、喉がさく鳴った。
事務所のに、苦しい沈黙がり積もっていく。 換気扇が回る頼りない音と、の原を流れるの音だけが聞こえていた。
「……松田のところへったのかい」
伯父の声は、掠れて消え入りそうだった。
「きました。松田さんから全部聞きました。あの軽トラックのブレーキが限界まで削れていたこと。万円の修理代を惜しんで、交換を断ったこと」
私は机に両をつき、伯父の目を真っ直ぐに見据えた。
広告
「おじさんはっていたんですよね。あのが、まともにブレーキも利かない危険な状態だったってこと。それをっていながら、父に貸した。違いますか」
伯父は答えなかった。 ただ、パイプ子にゆっくりと腰を沈め、両を膝ので固く握りしめた。 その節くれだった指が、刻みに震えている。
「答えてください、おじさん! あの夜、何があったの?! 父はなぜんだの?! どうしてお母さんはまみれで戻ってきたの?! どうしておじさんのが、夜のにうちのにまってたのよ!」
抑え込んでいたが、気に堰を切って溢れした。 狭い事務所のに、私の叫びが反響する。
伯父はを垂れ、い、い沈黙のあと、く息を吐きした。 その息には、い肺の奥からちるような、タバコと錆びた鉄の匂いが混ざっていた。
「……貸したんじゃない」
伯父は、の油染みを見つめたまま、ぽつりと言った。
「え……?」
「俺が……頼んだんだ。正彦兄さんに」
伯父はゆっくりと顔をげた。 その目は充血し、涙で膜が張っていた。のあの、私ので泣き崩れたと同じ目だった。
「あの頃、うちのは倒産寸だった。の取引先から切られて、請けの形が落ちなくてな……翌の朝までに、隣県のへ精密部品を百個、どうしても届けなきゃならなかった。もし納品が遅れたら契約解除で、違約でうちは完全に終わりだった。
従業員の料も払えない、形が渡りになって夜逃げするしかない……そんな崖っぷちだったんだ」
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 73 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 0