"恩人弁護士の不可解な書類" 第6話
の奥で、キーンという甲い属音が鳴り響いた。
「印鑑はあんたがで押したんだ。察して自分から引け」
藤堂のあの独特の調。 「印鑑を押した」ではなく、「で押した」という、械化がんだ総務業務を揶揄するような、藤堂特の奇妙な言い回し。
そして何より――この言葉を、この言句違わぬ文脈でに話したのは、私のでただしかいない。
神保町の、あの暗い事務所。 古びた架に囲まれた密で、ティッシュを握りしめ、泣きじゃくりながら私が打ちけた、あのの告。
『押しませんでした。そうしたら、専務が自分で引きしから別の印鑑をして押して……そのに、言われたんです。「印鑑はあんたがで押したんだ。察して自分から引け」って』
あの、榎本弁護士は類の端に、確かに何かをき留めていた。 そして私に言ったのだ。 『会社の汚いやりに、あなたがこれ以傷つく筋いはありません。全部、私に任せてください』と。
「真さん……? どうしたんですか? 顔が真っですよ」
由里の配そうな声が、くから聞こえる。 私の指先は、氷のようにたくなっていた。
なぜ、私が見ずらずの梨さんの裁判の類のにいるのか。 なぜ、あの密で、信頼する弁護士だけに打ちけたはずの私の言葉が、のに晒され、の武器として法廷に提されているのか。
広告
私は震えるで、類の最終ページをめくった。 そこには、原告・梨郁恵の代理弁護士の事務所名が記載されていた。
にかれていたのは、別の齢な弁護士の名だった。 だが、そのすぐ、担当補助者および送達先として記載されていたメールアドレスのドメインを見た瞬、私の息は完全に止まった。
『@enomoto-law.jp』
榎本拓の事務所のアドレスだった。
は、凍えるようなの夜だった。 換気扇から吹き込んでくる気が、私の首筋を無慈に撫でげていった。
居酒をたの夜は、酔いを吹きばすにはあまりにもたすぎた。
由里から渡された類のコピーを、私はコートのポケットの奥くに押し込み、指先でく握りしめていた。 の角が指の腹にい込み、痛む。 だが、その痛みだけが、自分がを見ていない証拠だった。
神田のワンルームに帰り着いても、コートを脱ぐ気力すら起きなかった。 もつけず、暗い部の真んにち尽くし、カバンからそのを取りした。 蛍灯のいので、もう度、その節をなぞる。
『相方・藤堂は、部が正な支の指示に難を示した際、常套句として「印鑑はあんたがで押したんだ。察して自分から引け」と脅迫し、責任を部個に転嫁して自発退職をすることが常態化していた』
文字の輪郭が、網膜に焼き付いてれない。
広告
偶然なのだろうか。 藤堂という男は、部を恫するにいつも同じ言葉を使っていただけではないのか。 「で押した」という妙な言い回しも、あの男特の癖で、私以の誰かにも同じように言い放っていたのではないか。
そう自分に言い聞かせようとした。 榎本先を疑いたくなかった。 世からを投げられ、暗の底で震えていた私を、唯として扱い、名を取り戻してくれただ。 あの温かい麦茶の。 調で、私のために淡々と、しかし容赦なく相を追い詰めてくれた背。 あの々までが嘘だったなんて、どうしても信じたくなかった。
だが、胸の奥でたい疑がじわりと広がっていくのを止められなかった。
なぜ、原告側の連絡先メールアドレスが、榎本先の事務所のドメインなのか。 代理の老弁護士の名は「坂井」とあったが、実務をかしているのは榎本先なのではないか。
眠れないまま朝を迎えた。 カーテンの隙から差し込むの青いを見つめながら、私はに決めた。
確かめなければならない。 に任せて榎本先に詰め寄るのではなく、まずは自分の目で、客観な事実を確認する。 もし私のい過ごしなら、それでいい。座してので謝れば済む。 だが、もしそうでないなら――。
私はコンビニのバイトのシフトを夕方からに変更してもらい、平の午、霞が関へと向かった。
広告
おすすめ作品
-
完結第22話
側溝の底のGPS
六年前に娘を事故で亡くし、近所から「不注意な母親」と後ろ指を指されながら暮らしてきた私。ある朝、向かいの名士宅との境界にある側溝の泥から、泥まみれの「娘の見守りGPS」を掘り出した。壊れた端末のログを開くと、六年間、豪雨の深夜になるたび、向かいの家のWi-Fiと通信を繰り返していた。問い詰めた夫が無言で開けた物置には、壁一面に貼られた隣家の行動記録と、五年間密かに改造されていた配管図面があった。ミステリー|因果応報|裡切られた|真相3.3万字5 0 -
完結第18話
退職金と三百万円の借金
三十二年間勤めた会社を定年退職する日、人事に呼び止められた私は、一枚の紙を突き出された。それは私の名義と私印で作成された、三百万円の福祉貸付金の借用証書だった。返済が済むまで退職金は支払えないと告げられるが、私に借金の覚えなど一切ない。震える手で書類の日付を確認すると、そこには十一年前、夫が急逝して告別式を行っていた日の数字が並んでいた。私は退職の合意書へのサインを拒み、人事の机に手をついた。怒り|退職金|金銭問題|修羅場2.6万字5 0 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0 -
完結第10話
月給22万円の「給料泥棒」と50億円のAI
「首にしとくから一生寝とけ。高卒の給料泥棒が」――交通事故で全身に重傷を負い、病室に運ばれた私・み月りんへ届いたのは、8年間耐えてきた上司・気藤からの非情なメッセージだった。難病の母の治療費を払うため、月給22万円でも「無能」と罵られながら働き続けてきた私。だが会社の誰も知らなかった。顧客管理、会計、在庫を結ぶ基幹システムを一人で設計し、独自AIを開発、20件以上の特許まで持つ本当の実力を。しかも気藤は、その成果を自分の手柄として奪い続けていた。もう十分だ。私は病室から「本日付けで退職します」とだけ返信し、会社との連絡をすべて断つ。翌朝、社内の全システムが機能しなくなり、誰一人として復旧できない事態に。そこで初めて会社は、自分たちが“給料泥棒”と嘲った女性が何を支えていたのかを思い知ることになる――。職場逆転1.6万字5 76 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 0 -
完結第12話
午前五時の朝餉
母・加奈子を理不尽に追い出して七日目の朝。二重ロックで施錠されたはずの台所で、炊飯器のランプが黄色く灯っていた。「保温:28分」。蓋を開けると、湯気を立てる筍ご飯と、包丁立てから消えた一番重い三徳包丁。電源を抜いても、暗証番号を変えても、毎朝午前五時に届き続ける温かい米。やがて米の底から現れた“ある金属片”を境に、父と祖母の顔から血の気が引いていく。母はどこから入り、この家で何を見つめているのか。因果応報|嫁姑|真実|修羅場1.8万字5 0