"退職金と三百万円の借金" 第16話
「静枝さん。私のやったことは、規程違反だ。偽造と言われれば返す言葉もない。だが、信じてほしい。私は君を苦しめるためにやったんじゃない。君と男君を守りたかったんだ……」
痛切な、祈るような差しが私に向けられた。
その目を、私はじっと見つめ返した。
りではなかった。憎しみでもなかった。
胸の奥を満たしていたのは、くて、くて、途方もないしみだった。
「川常務」
私は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「あなたは、男さんの誇りを守ったとおっしゃいました。佐野君を守り、私を守ったと」
「……ああ」
「でも、違います」
私は首を横に振った。
「あなたは、私から『妻として夫と共に背負う権利』を奪ったのです」
川常務が、息を呑んだ。
「もし、のあの。あなたが私のところへ来て、すべてを正直に話してくれていたらどうだったでしょう。『男君は輩を庇って無理をして倒れた。百万円の穴がある』と、そう言ってくれていたら」
私は自分の両を見つめた。
あの、夫の遺骨を抱えて震えていた、無力だった私の。
「私は、どんなことをしてでもおを面しました。実の田畑を売ってでも、親戚にをげてでも、パートをつ掛け持ちしてでも、夫の残した百万円を堂々と返済しました。夫の過失を、夫の選んだ輩の命を、妻として緒に背負ってきていけたはずです」
広告
私の目から、いものが頬を伝って零れ落ちた。
「でも、あなたは私に何もらせず、私の印鑑を盗み、私の名で借を作り、嘘で塗り固めた弔慰を受け取らせた。私はこの、何もらず、あなたがたの『施し』と『欺瞞』ので、のうのうと暮らしていたことになる。……それがどれほど惨めで、どれほど屈辱なことか、あなたにはわからないのですか!」
川常務は唇を震わせ、言葉を失った。
「男さんは、そんな隠蔽を望んでいたでしょうか。自分のを利用して、妻に内緒で借を押し付け、輩にの負い目を背負わせることを、あのが国でんでいるといますか!?」
私の慟哭のような問いかけに、部の誰もが息を止めた。
浦部は俯き、類を握る指をくしていた。
そして――。
「……僕が」
静寂を破ったのは、佐野の震える声だった。
佐野はパイプ子から滑り落ちるようにしてに膝をつき、両を畳んだ。
「僕が……悪かったんです」
佐野はに額を擦り付けた。リクルートスーツの肩が、激しく波打っていた。
「川常務を責めないでください。悪いのは全部、僕です。僕が無能で、逃げして、男さんに甘えて……常務の偽装に乗っかって、も沈黙を続けた僕の罪です!」
佐野は懐から、冊のの通帳と、枚の振込依頼を取りした。
広告
テーブルのに、震えるで差しされた通帳。
番のには、印字されたばかりの数字が並んでいた。
『現残 百万千百円』
「毎……しずつ、貯めていたんです」
佐野は涙とに塗れた顔をげ、私を見げた。
「常務からは『もう帳簿は消えたから気にするな』と言われていました。でも、僕の胸のからは、あの夜の凍庫の匂いも、男さんのたくなったも、だって消えませんでした。いつか、いつか林さんにすべてを打ちけて、このおを返さなきゃいけないって……ずっと、定期預に積みてていたんです」
佐野は振込依頼を、浦部の元へと押しめた。
「浦部! この百万円は、僕が会社に弁済します! 借入の名義を、林静枝さんから佐野涼太に変更してください! 僕の退職の担保でも、毎の与引きでも、なんでもしてください! 林さんは関係ないんです……林さんには、円の借もないんです!」
「佐野……」
川常務が、掠れた声で呟いた。
浦部は、テーブルのの帳、納伝票、そして佐野の差しした通帳を交互に見つめた。
事の責任者として、こので何が起きているのか。
これを「印私文偽造および詐欺」として警察に突きせば、川常務の首はび、佐野は懲戒解雇され、品の社会信用は失墜する。
だが、目のにあるのは、保や横領のドロドロとした汚職ではない。
、歪んだ形で結ばれてしまった男たちの主従関係と、遺された未の尊厳を巡る、痛切すぎる清算の現だった。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 84 -
完結第19話
席次表から消された姉
披露宴の席次表を確認していた時、婚約者は親族席にある私の姉の名前を赤ペンで乱暴に塗りつぶした。介護士の姉を親戚に見せるのは家の格に関わると吐き捨てる彼に、私は必死で抗議した。だが、両親のいない私を育ててくれた姉は、侮辱されても取り乱すことすらしなかった。ただ、赤線の引かれた名前を静かに見つめ、「彼のお父さんが去年入院した時、毎晩誰が付き添っていたか聞いてごらん」と私に告げた。裡切られた|兄弟姉妹|親不孝|介護|修羅場2.9万字5 2 -
完結第22話
恩人弁護士の不可解な書類
満員電車の切り取り動画で炎上し、派遣先を不当解雇された私を、着手金ゼロで救ってくれたのは小さな事務所の弁護士だった。彼の尽力で示談を勝ち取り日常を取り戻した二ヶ月後、私は元上司のパワハラを訴えた見知らぬ後輩の裁判資料を目にする。そこには、私が弁護士の相談室で泣きながら話したはずの告白が、そのまま証拠として並んでいた。震える手で開いたその裁判記録の送達先には、私を救った恩人弁護士の事務所名が記されていた。職場逆転|因果応報|裡切られた|怒り3.4万字5 0 -
完結第19話
レジ打ちの妻は恥ずかしい
結婚式まであと一か月。婚約者から突然、私の名前が印刷された『退職届』を差し出された。「うちの嫁がスーパーでレジ打ちなんて困る」と義母と決めたという。冗談だと笑おうとした私に、彼は真顔で「取引先に見られたら恥ずかしい」と言い放った。この三年間、一生懸命働く私の姿が好きだと言ってくれたのは嘘だったのかと問うと、彼は静かに言った。「恋愛と結婚は、違うんだよ」。私は差し出されたペンを机に押し返した。裡切られた|怒り|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 0 -
完結第23話
父の逝った夜の車
父が亡くなって十八年、独身の伯父は私達三兄妹を支え続け、兄の就職も姉の結婚資金も工面してくれた。家族全員が恩人と慕う中、末っ子の私だけが幼い頃から伯父と二人きりを拒み、性格のせいだと呆れられていた。二十八歳のある日、会食の席で伯父が私の椅子を引いてくれた瞬間、鍵のかかっていた記憶が甦る。十八年前の嵐の深夜、泥まみれの母が一度だけ家に戻った時、街灯もない門前の暗闇で消灯したまま待っていたのは、伯父の車だった。兄弟姉妹|真実|親子関係|修羅場3.4万字5 0 -
完結第22話
母は死んだと書いた娘
夫の連れ子だった八歳の娘を引き取り、七年間毎朝弁当を作り、熱を出せば夜通し看病を続けてきた。ぎこちなくとも穏やかに暮らしてきたはずの中学三年の秋、担任に呼び出された私は、娘が提出した調査票を見て言葉を失った。家族欄には「実母は七年前に他界、父と二人のみで生活」と書かれ、私の名前は存在すら消されていた。裡切られた|夫婦|孤獨|修羅場3.3万字5 0 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 0