"十年前に死んでいた夫" 第3話
……失礼ですが、奥様はご主の戸籍謄本をお持ちですか?」
私は、何も答えられなかった。 ただ、そのに縫い付けられたようにち尽くしていた。
病院をたときの記憶は、ほとんど定かではない。 気づいたときには、都営宅のち並ぶを抜け、私たちが暮らしてきた築の造アパートのにっていた。
壁のモルタルはひび割れ、階段のすりには赤錆が浮いている。 階の奥、〇号。 玄関のドアノブを回すと、いつもの匂いがした。 線の残りと、夫が用していた湿布の匂い、そして古びた材が湿気を吸った、あの独特の活の匂いだ。
「ただいま」
無識に声がた。 返事はない。当たりだった。 部の央、畳のに置かれたさな文机には、い布で覆われた夫の骨壺が置かれている。 その横には、彼が用していた湯呑み。 茶渋のついた、どこにでもある美濃焼の物だ。
私は靴も脱ぎ散らかしたまま、部の隅にある古い製のタンスへ駆け寄った。 段目をける。 丁寧に畳まれた夫の肌着と、毛玉のついたウールのチョッキ。 段目をける。 私が誕ごとにプレゼントした、なの靴。 段目。そこには、がのな類をまとめた、丸いクッキーの空き缶が入っていた。
膝をつき、震えるで缶のフタをけた。
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には、茶封筒がいくつか入っている。 私はそれらを枚ずつ、畳のにぶちまけるようにして広げた。
私の帳。 私の健康保険証。 私名義の通帳。 私のマイナンバーの通カード。 このアパートの賃貸契約——借主の名は、私の名義だった。
探した。 何枚も、何枚も、の束をめくった。 気代の領収、ガス代の振替通、局からのハガキ。 すべて「佐伯久恵」宛てだった。
夫のものが、何つない。
「嘘でしょう……?」
たい汗が、額から顎へと伝い落ちた。 私は押し入れの袋にを伸ばし、夫が事にしていた革の提げ鞄を引きずりろした。 ファスナーをけ、をぶちまける。 てきたのは、古びた爪切り、老鏡、何本かの鉛、そして夫が内職で使っていたさな彫刻刀のセットだけだった。
運転免許証はない。 健康保険証もない。 帳もない。 の通帳すらない。
というが、音をてて崩れ落ちていくような覚だった。
どうして今まで、気づかなかったのだろう。 いや、違う。 私は「気づかなかった」のではない。 「見ないようにしていた」のだ。
、私はの夫のひどい借と暴力に耐えかねて婚し、ボロボロになってこの町へ逃げてきた。 さなクリーニングの取次で働き、んだように毎を過ごしていた。 そんなある、袖のほつれたコートを持ってに現れたのが、彼だった。
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物静かで、決して声を荒らげず、いつもどこか申し訳なさそうに背を丸めていた男。 計の修理や、壊れた製具の修繕といった細かい仕事を請け負って、細々と糊をしのいでいた彼と、私はいつしか言葉を交わすようになり、やがて緒に暮らすようになった。
『私には族もいないし、過にいろいろあってね。役所の類というものが、どうにも苦なんだ。久恵さん、籍を入れない事実婚の形でもいいだろうか』
最初にそう言われたとき、私はむしろ堵したのだ。 の結婚で、戸籍や親族のしがらみ、役所の続きというものに底嫌気がさしていた私は、切れ枚の繋がりなど何のもないとっていた。 お互いに名をり、同じ根ので温かいご飯をべ、労わりってきていければ、それで分だと信じていた。
活費は、彼が毎、札の混ざった封筒で万円を渡してくれた。 『計の修理代を現でいただいたから』 そう言って、彼はいつも笑っていた。 座を作らないのも、昔気質の職気取りなのだと勝に解釈していた。
彼が体調を崩し、激しい咳をするようになってからも、彼は病院へくことを極端に嫌がった。 私が無理やり久保総病院へ連れてったとき、彼は受付で青い診察券をし、『保険証を更だから割払う』と言い張った。
あの、私は『もったいないわよ、く保険証の続きをして』と彼を責めた。
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