みかん小説
本棚

"十年前に死んでいた夫" 第5話

にもねられた黒いインクの線。 いた本が、この世からその痕跡を完全に消しりたかったかのような、執拗な圧。 だが、を蛍灯のに透かしてみたとき、塗りつぶされたインクの隙から、最初の文字だけが、刃物のように鋭く浮かびがった。

輪』

佐伯ではなかった。 彼が名乗り、の病院でんだ若者の名でもない。

「みわ……?」

唇に乗せたその響きは、たく、見らぬのもののように私の部に落ちた。 で、突が吹いた。 ガタガタと古い窓ガラスが鳴り、たいが、ぽつぽつとガラスを叩き始めた。

私はその片を胸に押し当て、文机のい骨壺を見つめた。 あなたはいったい、どこから来て、誰としてんでいったの。

音だけが、答えのない部を満たしていた。

夜がけても、部しもかくならなかった。

のインクでかれた『輪』の文字を指先でなぞりながら、私は畳のに座り込んでいた。 指の腹に伝わる、かすかなの凹凸。 夫がこれほどまでに執拗に、親の仇でも呪うかのように塗りつぶした文字。 その黒いインクの奥に眠っていたものが、彼の本当の姓だったのだろうか。

輪……」

もう度、声にしてみる。 度も呼んだことのない音だった。 「孝之さん」と呼べば、彼はいつもしだけを置いて、まるでくから自分の名が届くのを待っていたかのように、穏やかに「うん」

広告

と答えた。 あのわずかなを、私はも経ってからることになったのだ。 彼は自分の名ではない音に返事をし続けていたのだ。

朝のを回り、私は壁の黒話の受話器を取った。 勤め先であるクリーニングの取次話をかける。 の野さんがた。

「あの、野さん。佐伯です」

「あら、久恵さん。体、丈夫? ご主のこと、本当に変だったわね。今から無理してなくてもいいのよ?」

さんの声は、気遣わしさに満ちていた。 その優しさが、今の私には刃物のように痛かった。 世に対して、私は「夫をくしたばかりの気の毒な未」だった。 けれど、そのくした夫が何者かも分からないなどと、誰に打ちけることができるだろう。

「すみません、野さん。あの……役所の続きで、どうしても方へかなければならなくなってしまいまして。ほど、お休みをいただけないでしょうか」

方? ご主のご実の方?」

「……ええ、まあ、そのようなところです」

嘘をつくときの自分の声の平坦さに、ながらぞっとした。 野さんは「気にしないで、ゆっくり済ませてきなさい」と言ってくれた。

受話器を置き、私はがった。 警察へくべきだという理性が、の片隅で警鐘を鳴らしていた。 の診察券をも使い、戸籍も分証も持たずに暮らしていた男。

広告

そんな取って葬まで済ませてしまったのだから、をすれば私自体遺棄や元詐称の共犯として疑われてもおかしくない。 久保総病院の平野課が言った「警察への通報」という言葉が、く胸にのしかかる。

だが、あの骨壺を警察に引き渡すことだけは、どうしてもできなかった。 、病で私のを握り、「久恵さん、ありがとうね」「すまないね」と繰り返していたあのの骨を、素性のれない犯罪者の証拠品のように扱われることなど、耐えられなかった。 彼が誰だったのか。 なぜの名を被らなければならなかったのか。 それをる権利が、世界で私にだけはあるはずだった。

私は黒いナイロンのショルダーバッグに、最限の着替えと財布、そしてあの折り畳まれた片を入れた。 それから、文机のに転がっていた、あのさな彫りの鳥をにとった。 桜のを削りした、掌にすっぽり収まるさな鳥。 夫がに浮かされながら、息を乱しながら、夜を徹して彫り続けていたものだ。 ハンカチにくるみ、バッグの底に滑り込ませた。

、私は骨壺のい布にを触れた。

ってくるわね」

返事はなかった。 鍵を閉め、造アパートの錆びた階段をりた。 空は鉛に濁り、湿ったが頬を叩いていた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: