"解雇された職人が未明に餡を練る" 第4話
使い終わった鍋はすでにピカピカに磨きげられ、湯で消毒されて定位置に伏せられている。 流し台には滴つ残っていなかった。 まるで、最初から誰もそこにいなかったかのように。
藤子さんは勝にち、コートを羽織ると、振り返って私を見た。
「美咲ちゃん」
その差しには、先ほどまでの職の厳しさはなく、いつもの優しい、し気な「藤子さん」の顔があった。
「今のこと、誰にも言わないでね」
「……言えませんよ、そんなこと。言ったら、奥様がなんて言うか……」
「奥様にも、健太くんにも内緒よ。約束してくれる?」
藤子さんはそう言って、さく微笑んだ。 その笑顔があまりにもしくて、私は頷くことしかできなかった。
カチャリとさな音をてて、勝の引き戸が閉まった。 配盤の隙に戻された鍵が、換気扇の余韻で微かに揺れていた。
取り残された厨で、私はまだ温かい蒸気を放っているバットのにった。 濡れ布巾をそっと持ちげてみる。 ちる湯気のに現れたのは、見事なまでに滑らかで、宝のように黒々と輝く漉し餡だった。
これだけのものを作っておきながら、名を名乗ることも許されず、夜けに逃げるようにっていく。 なぜ、そこまでしなければならないのか。 なぜ子さんは、これほどまでにを支えてきた藤子さんを、あんな残酷な形で切り捨てたのか。
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疑問は解けるどころか、たい鉛のように胃の底へ沈んでいった。
午、階段をドタドタと駆けりる乱暴な音が響いた。
「くそっ、寝過ごした……!」
び込んできたのは、目のに真っ黒な隈を作った健太さんだった。 髪はボサボサで、Tシャツの胸元には昨夜のび散った滴の跡がついている。 には分いノートを握りしめていた。藤子さんの作業順をき写したメモだろう。
「美咲ちゃん!? なんでこんなに……」
「おはようございます、健太さん。仕込みが配で、しく来ました」
私が努めて平然とした声で答えると、健太さんは青ざめた顔で調理台へと駆け寄った。
「豆は!? 浸させてた豆、どこった!? まさか母さんがもう捨てたのか!?」
パニックになりかけている健太さんの線が、作業台のに然と並べられたつの角いバットに留まった。
「……え?」
健太さんは恐る恐るづき、バットにかかった布巾をめくった。
黒の完璧な餡が、朝のを浴びて艶やかに沈んでいる。
「これ……嘘だろ……」
健太さんの指先が震えていた。 ノートがから滑り落ち、ステンレスのに乾いた音をてて落ちた。
「もう……練りがってる……? 誰が……母さんがやったのか? でも、母さんは腰を悪くしてから、このい鍋は振れないはずじゃ……」
健太さんは呆然と呟きながら、餡を見つめていた。
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その表には、堵など微もなかった。 あったのは、底れぬ恐怖と、自分には絶対に届かないい壁をにした絶望のようなだった。
「健太」
厨の入りから、ややかな声が響いた。
振り返ると、いつのにか子さんがっていた。 きちんとしたの着物に、糊のきいたい割烹着。 髪は筋の乱れもなく結いげられ、すでにいつでも帳にてる完璧な「柳堂の女将」の姿だった。
「母さん……これ……」
健太さんがずった声でバットを指さす。
子さんは息子の狼狽には目もくれず、静かな取りで作業台へとづいた。 バットのにつと、脇に置かれていた見用のさなさじをに取った。
布巾の端をめくり、餡の表面をほんのしだけ掬い取る。
そして、迷うことなくそれをに運んだ。
厨のを、張り詰めた沈黙が支配した。 換気扇の回る音だけが、やけにきく聞こえる。 健太さんは固唾を呑んで母親の横顔を見つめ、私は息を殺して自分の爪をのひらにい込ませていた。
子さんの喉が、微かにいた。
目を閉じることも、表を綻ばせることもない。 ただ、さじを静かに桶のへと落とした。コトン、とい音が響いた。
「……具を片付けなさい。準備にかかります」
それだけを告げて、子さんは背を向けようとした。
「待ってくれよ、母さん!」
健太さんがたまらず声を張りげた。
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