"一度も抱かれなかった娘" 第1話
「ママはね、咲良がまれたとき、抱っこもしないでどこかへっちゃったんだよ」
物がつくから、私は娘にそう言い聞かせてきた。 残酷な言葉だということは分かっている。母親に望まれずにまれたと告げられる幼子の痛みを、像しないなどなかった。それでも、私はこの言葉を繰り返した。
のあいだ、度も揺らぐことなく。
朝の慌ただしい空気の、歳になった咲良はさなで玄関にち、マジックテープのついたスニーカーを履こうと格闘していた。 しまでは「パパ、やって」とすぐに甘えてきたのに、保育園のクラスに級してからは、何でも自分でやりたがるようになった。さな指先が懸命にかかとを押し込んでいる。
「咲良、かかと踏まないようにね」 「わかってるもん。せんせいが、じぶんでできるのがおねえさんだって言ってた」
真剣な横顔を見ていると、胸の奥がきりりと痛む。 輪郭も、し茶がかった柔らかな髪の癖も、あの女にそっくりだった。 あの女——妻の茜(あかね)が私のから姿を消したのは、平成の終わり、咲良を産み落とした翌朝のことだった。
病院のベッドには、脱ぎ捨てられた部着と、財布やスマートフォンが入ったままのバッグが残されていた。 まれたばかりの咲良だけが、児のコットに取り残されていた。
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警察には、包み隠さず話したつもりだった。 妻は妊娠から緒が定で、産直もが子の顔を見ようともしなかった。抱きげることも拒み、そのまま病院を抜けしたのだ、と。 警察は当初、産うつによる突発な事故や自を疑い、隣の川や防波堤まで捜索した。しかし遺体は見つからず、遺留品もなかった。とともに捜査本部は縮され、やがて「自発失踪」の扱いとなって処理された。
それ以来、私はで咲良を育ててきた。 朝に起き、朝を作り、咲良を着替えさせて保育園へ送り届ける。会社では勤務制度を使い、定になるとをげて退社し、スーパーで半額の惣菜と牛乳を買って迎えにく。 夜、咲良が寝静まったに、のような洗濯物を畳み、保育園の連絡帳に体温と排便の無を記入する。
周囲は私を「派な父親」と呼んだ。 職の同僚も、保育園の保護者たちも、妻に捨てられながらも男つで娘を育てる健気な父親として、同と敬を向けてくれた。 私はその線を、静かに受け入れ続けてきた。
「パパ、いこ!」 咲良がちがり、さなリュックを背負って満面の笑みを浮かべた。 胸元には、保育園で配られた名札が揺れている。「あいはら さくら」と、私が油性ペンでいた歪な平仮名。
「はいはい、こうか」
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私は咲良のさなを握り、玄関のドアをけた。 の澄んだが、の頬を撫でて通り抜けていく。 何事もない、いつも通りの常のはずだった。
正午をし回った頃、会社のデスクに置かれた内線話が鳴った。
「相原さん、線番です。病院からとおっしゃっていますが」 隣の席の同僚が受話器を指さした。
「病院?」 瞬、保育園からの呼びしで咲良がでもしたのかと構えた。 受話器を取ると、聞こえてきたのは聞き覚えのない、落ち着いた配の女性の声だった。
『お仕事に恐れ入ります。相原俊さんのお話でお違いないでしょうか』 「はい、相原ですが……咲良に何かありましたか」
『いえ、お嬢さんのことではございません。私、緑町総病院の産科で助産師をしております、望と申します』 その名を聞いた瞬、私の背筋にたいものがった。
緑町総病院。 に咲良がまれ、そして茜が姿を消した、あの病院だった。 あの以来、私は度とその建物のを通ることすら避けてきたはずだった。
「……何の用でしょうか。そちらとはもう、何も関わりがないはずですが」 警戒を隠さず、くたい声で返した。
話の女性——望と名乗る助産師は、わずかにを置いてから言った。 『突然のご連絡、誠に申し訳ございません。当院では現、医療法に定められたカルテおよび資料のの保管期限満に伴い、旧病棟の保管庫を理しております』
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