"一度も抱かれなかった娘" 第5話
もし茜が「子どもをしていた」という事実が公になれば、周囲の目は変する。 なぜ彼女は着の着のままで逃げさなければならなかったのか。 なぜ夫は、妻から子どもを奪い、精神異常者の烙印を押して追い詰めたのか。
すべてが暴かれる。 私が作りげてきた、れで派な父親という居所が、跡形もなく崩れってしまう。
腕計を見ると、分を指していた。 保育園の迎えのだった。
私は乱れた息をえ、スーツの襟を正した。 公文包のファスナーを急いで閉めようとしたが、類を適当に押し込んだせいで、端が噛みわずしいたままになってしまった。 それを直す余裕もなく、私は保育園へとを速めた。
「パパ!」
保育園のをくぐると、園庭の砂で遊んでいた咲良が、私の姿を見つけて駆け寄ってきた。 だらけになった靴。両いっぱいに抱えた、どんぐりや綺麗な。 その無垢な笑顔を見た瞬、胸を締め付けていた鉛のような圧が、ほんのしだけ緩むのをじた。
「お待たせ、咲良。今もいい子にしてたか?」 「うん! あのね、きょうね、おやまつくったの。すっごくおおきいの!」
担任の保育士にをげ、「いつもありがとうございます」と挨拶を交わす。 「相原さん、いつも本当にお疲れ様です。咲良ちゃん、今もお父さんの絵を懸命描いていましたよ」
広告
「ありがとうございます。助かります」
いつも通りのやり取り。いつも通りの、信頼に満ちた保育士の差し。 そうだ。ここは私の世界だ。 誰もあのの密の来事などらない。私が咲良をし、育てているという現実に、何つの嘘もない。
を繋いで歩く帰り、咲良はずっと今あったことを楽しそうに話していた。 のスープが美しかったこと。お友達とブランコの順番を譲りえたこと。 さな温かいが、私のを握りしめている。 この温もりだけは、誰にも渡さない。も、そしてこれからも。
に着き、玄関の鍵をけた。 「ただいまー!」 咲良が元気よく靴を脱ぎ散らかし、廊へがろうとする。
「こら咲良、靴は揃えなさいって、いつも言ってるだろ」 「はーい」
私はため息をつきながら、ビジネスバッグを玄関の框(かまち)のに置いた。 咲良が脱ぎ捨てたさなスニーカーをに取り、つま先を揃えて駄箱の隅に置く。 そのとき、背でカサリと何かが落ちる音がした。
振り向くと、框のに置いたビジネスバッグが倒れていた。 半きになっていたファスナーの隙から、先ほどの茶封筒から滑りたものが、玄関のタタキに落ちていた。
透なビニール袋。 そのに入った、汚れたいガーゼハンカチ。
「あ、これなに?」
私の制止がにうよりもく、咲良が素いきでそれを拾いげていた。
広告
さな両で、珍しそうにビニール袋を眺めている。
「咲良、触っちゃダメだ! 返しなさい!」
わず、自分でも驚くほど鋭い声がた。 咲良がびくりと肩を竦め、怯えたように目を丸くして私を見げた。 普段、私が咲良に声を荒らげることなど、ほとんどなかったからだ。
「パ、パ……?」 「……あ、いや、ごめん。仕事の事な類なんだ。汚れたら困るから、パパにちょうだい」
私は努めて声の調子を落とし、優しく言い聞かせるようにを差しした。 く奪い取らなければならない。今すぐに。 臓が激しく鐘を打っていた。
だが、咲良のは止まらなかった。 子供の器用な指先が、ビニール袋の簡易なテープを簡単に剥がしてしまった。 から、ふわりと古びた布の匂いが漂う。
咲良は、そのガーゼハンカチを広げた。 歳のさなのひらので、い布が頼りなく揺れる。 そして、咲良の指が、の隅に縫い付けられた、ピンクの刺繍に触れた。
保育園で毎、自分の持ち物を確認するために教え込まれている、あの文字。 毎、靴箱のシールで、タオルのタグで、連絡帳の表で見つめ続けている、自分の名。
咲良が、首をかしげた。 その瞳に、これまで見たこともない、純粋でい疑問のが宿っていく。
「パパ……」
咲良は、拙い刺繍の文字文字を、差し指でそっと撫でた。
そして、そうに眉を寄せ、私を見げてこう言った。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
母の職場で死んでいた私
母の定年退職をサプライズで祝うため、私は東京から新幹線に乗り宴会場へ駆けつけた。お祝いの品を手にして扉を開けた瞬間、母の同僚は手にしたグラスを取り落とし、顔を青ざめて後ずさりした。毎年盆と正月には実家へ顔を出し、仕送りも続けていたはずの私は、母が二十八年勤めた職場では十五年前に事故で亡くなった娘として扱われていた。ステージを駆け下りてきた母は私の手首を強く掴み、そのまま非常階段へと力任せに引きずり出した。親不孝|親子関係|退職金|修羅場3.5万字5 0 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 0 -
完結第24話
妻の手術翌朝、七通の解約通知
妻が胆嚢ポリープの手術で入院した日、私は仕事を優先し「自分で処理しろ」と見舞いを断った。だが翌朝、私の携帯にマンションの駐車場、クレジットカード、父のデイサービスを含む七通の解約通知が立て続けに届く。カードは店頭で弾かれ、ビルのゲート前で立ち往生した私は、妻の報復を確信して病室のドアを乱暴に開けた。点滴に繋がれた妻は、今すぐ元に戻せと詰め寄る私の目の前で、スマートフォンの画面を静かに伏せた。怒り|夫婦|介護|修羅場3.7万字5 0 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 0 -
完結第25話
義母の合鍵が入らない
結婚五年目、情緒不安定を理由に義母に家の合鍵を預けさせられた。夫は母を庇い、私に我慢を重ねるよう笑って求めた。義母の無断侵入は続き、私の大切な机まで雨のベランダへ放り出されたが、私は一度も怒鳴らなかった。一ヶ月後、いつものように合鍵で入ろうとした義母の前に現れたのは、鍵穴すら存在しない最新の電子錠だった。激怒して電話をかけてきた義母に対し、今まで母に逆らったことのなかった夫が「僕が鍵を変えた」と告げた。嫁姑|夫婦|親子関係|修羅場3.8万字5 0 -
完結第18話
ゴミ箱の隣に座る学年一位
学年1位を守り続けてきた娘が、二学期に入ると突然一番後ろの席に移動させられ、学級委員長も外された。何か処分を受けたのかと学校へ詰め寄る私に、娘は「この席でいいの」とだけ言い、何も説明しようとしない。納得できないまま迎えた参観日、教室の後ろに立つ私は、娘の隣にぽつんと置かれた空っぽの机に気づいた。誰の席なのかと問い詰める私に、担任は教室の隅を見つめ、「娘さんが残してくれと頼んできたんです」と静かに告げた。怒り|真実|孤獨|親子関係|修羅場2.8万字5 0 -
完結第18話
診察室に入れなかった私
妊娠七ヶ月、甲斐甲斐しく尽くす夫の言葉に従い、私は毎回待合室で温かい茶を飲んで待っていた。「異常なし」と笑う夫を疑ったことはない。だが夫が仕事で不在となり、初めて一人で診察室に入ると、医師は冷徹な面持ちで私を見据えた。向けられたパソコンの画面には、私が頑なに治療を拒み、夫が必死に説得したという記録が三回連続で並んでいた。その三回とも、私は一度も診察室に足を踏み入れていない。裡切られた|夫婦|裡の顔|修羅場2.8万字5 0 -
完結第21話
解雇された職人が未明に餡を練る
創業五十周年を控えた和菓子屋で働く私は、常連客の前で二十五年尽くした職人が店主に突然解雇される場に居合わせた。跡を継ぐため会社を辞めて戻った一人息子がいるものの、看板である漉し餡の技術はまだ誰にも継がれていない。店が立ち行かなくなると焦った私が翌朝四時に店へ駆け込むと、暗い厨房で追い出されたはずの職人が大鍋を振っていた。仕上がった餡を前に、朝一番に出勤した店主は無言で味見の木さじを口へ運んだ。裡切られた|親不孝|親子関係|修羅場3.2万字5 0 -
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 2460