"一度も抱かれなかった娘" 第10話
「……あ、ありがとうございます」 私は乾ききった唇をかした。 「昨夜、し昔の話になりまして……妻のことを、しだけ話したんです。そのせいかもしれません」
『そうでしたか……。急にお母様のことが気になり始める期でもありますからね。保育園でも、咲良ちゃんの気持ちに寄り添って見守るようにいたしますね』
「よろしくお願いします」
通話を終えた瞬、私は非常階段のすりに額を押し当てた。 吐き気がした。 咲良ののに、あの女のが落ち始めている。 、私が丹精込めて作りげてきた「パパだけの世界」に、あいつが入り込んできている。 あのガーゼハンカチ枚のせいで。 あのたった文字の刺繍のせいで。
——だっこしてくれるひと。
あいつは咲良を抱っこしたことなどない。度だって抱かせなかった。 抱かせなかったのは私だ。 だが、咲良の無識の奥底には、母親の抱擁を渇望する乾きが、ずっと眠っていたのだ。 私がどれだけを注いでも、どれだけ完璧に世話をしても、埋めることのできない穴が、最初からそこにぽっかりと空いていたのだ。
「くそっ……!」
私はすりを拳で殴りつけた。 鈍い痛みがったが、胸のの焦燥は消えなかった。 く帰らなければ。咲良を迎えにき、抱きしめて、「おにはパパだけで分だ」と言い聞かせなければならない。
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定のになると同に、私は逃げるように退社した。 夕暮れのをで歩き、保育園へと向かう。
をくぐると、咲良は教の片隅で、で絵本をいていた。 の子どもたちが元気に積みやお形で遊んでいるで、咲良だけがぽつんと孤しているように見えた。 そのには、あの絵本——母親のうさぎが子うさぎを抱きしめる表の絵本が握られていた。
「咲良」 私が声をかけると、咲良は顔をげた。 昨までの、私を見つけるなり満面の笑みで駆け寄ってくる姿はなかった。 咲良はゆっくりとちがり、絵本を棚に戻すと、無言で私の元へ歩いてきた。
「……パパ」 「お待たせ、咲良。帰ろうか」
私は咲良のを握った。 そのさなは、昨の夜よりもしたくじられた。 帰り、咲良は言も喋らなかった。 いつもなら「パパ、あのおきれい」とか「れるかな」と、途切れることなく話しかけてくるのに、今はただ私の横を、線を元に落としたまま歩いていた。
に着き、咲良の靴を脱がせ、を洗わせる。 「お腹すいたろ? 今はオムライスにしようか」 私が努めてるく提案しても、咲良は「うん」とさく頷くだけだった。
私がキッチンにち、フライパンにをつけただった。 リビングの固定話が、甲い子音を鳴らした。
ジリリリリ、ジリリリリ。
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ほとんど鳴ることのない固定話だった。 普段かかってくるのは、実の母からの定期連絡か、怪しいセールスの話くらいのものだ。 私はフライパンのをめ、受話器を取った。
「はい、相原ですが」
『……もしもし。俊さん?』
話から聞こえてきたのは、しめの、凛とした女性の声だった。 どこかで聞き覚えのある声。 けれど、実の親族でも、職のでもない。 記憶の引きしを乱暴にかき回す。以、結婚するの記憶。
「……どなたですか」 私が警戒をわにして尋ねると、相はさく、嘲るようなため息をついた。
『やっぱり、私の声なんて忘れちゃったわよね。……千(ちあき)よ。吉岡千。茜の、からの友達の』
臓が、ドクンと嫌なね方をした。
千。 あいつの番の親友だった女だ。 結婚、茜とべったりと付きい、私の実や私の性格について、茜に余計な入れ恵ばかりしていた女。 結婚してからは、私が茜のスマートフォンから連絡先を消させ、度と会わせないように関係を断ち切らせたはずだった。
「……なぜ、この番号をっている」 私の声が、自然とく濁った。
『るも何も、昔の茜の携帯に登録してあったの番号よ。帳に控えてあったの』 千の声はややかだった。 『驚いた? まさか私から話がかかってくるなんてわなかったでしょうね』
「何の用だ。
おと話すことなど何もない」
『あるのよ、ありよ』 千はピシャリと言い放った。
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