みかん小説
本棚

"母の職場で死んでいた私" 第7話

はお祝いのためにサプライズで参りました。……ですが、どうやら私のは、この会社では変ながあるようですね」

「美紀……やめて……!」

母がから掠れた鳴をげた。 母はうようにして私の元にすがりつこうとしたが、私はそのたく見ろし、半歩だけろに引いて躱した。 母の指先が、私のパンプスの爪先を空しくかすめ、絨毯のに落ちる。

の顔から、急速にが失われていった。 彼は社内の労務やコンプライアンスをに引き受けてきたベテランの管理職だ。 そので、今この瞬に何が起きているのか、そしてこれが会社の過の労務管理や慶弔関係にどのような激震をもたらすのか、恐ろしい速度で計算が巡っているのが分かった。

「……津田さん」

の声から、それまでの温かみや定を労う響きが完全に消えっていた。 く、事務で、底えのするような声だった。

「今のところは、もうお引き取りください。……束も、記品も、こちらで預かっておきます」

「部……あの、私は……」

「本の宴席は、私が適当な理由をつけて締めとします。……これ以の混乱は、会社としても、ホテルのとしても過できません」

は母の言葉を切聞こうとしなかった。 線すらわせず、ただ淡に背を向けた。

広告

の朝、本社階の第会議に来てください。私と、事課、それから……相談役として残っておられる内元部にも同席していただきます。そこで、すべてを伺います」

内部。 その名がた瞬、母の肩が目に見えてがった。

非常扉が、い音をてて閉ざされた。 踊りには、私と、にうずくまる母のだけが取り残された。 さんは、いつのにか扉の向こうへと消えていた。 り際に彼女が母に向けた、氷のようにたい差しが、網膜の裏に焼きついてれなかった。

母はに額を擦りつけるようにして、声をさずに肩を震わせていた。 紺のスーツの背が、呼吸のたびにさくしている。

「……って」

私は母を見ろしたまま言った。

「ここにいても仕方がないでしょう。実に帰るよ」

母は何も言わず、ただすりに縋り付いて、老のようにをかけてがった。 胸元の『祝・定退職』のコサージュが、無惨に歪んで押し潰れていた。

のタクシー乗りから実までの内には恐ろしいほどの沈黙が満ちていた。 運転部座席の異様な空気に気づいたのか、バックミラーを見ることもせず、ラジオのボリュームをさく落として黙々とハンドルを握っていた。

窓のを流れる方都の景は、私がとほとんど変わっていなかった。

広告

全国チェーンの紳士、古びたパチンコ、空きになったガソリンスタンド。 窓を流れる並みを眺めながら、私のでは、さんの言葉が何度も、何度もリフレインしていた。

『特別慰問として万円』 『僻への転勤取り消し』 『員削減のリストから除

私は、自分の膝ので握りしめたバッグをく締めげた。 爪が革にい込み、指先がくなる。

母は、私のを消すことで、活を守っていた。 いや、それだけではない。 同という名の、最も全で、最も反論を許さない防壁のに、引きこもっていたのだ。

タクシーが、見慣れた階建ての宅のまった。 父がに遺した、築数だけをねた古いだ。 壁のペンキは所々剥がれ落ち、庭の植え込みは入れがき届かずに枝を伸ばし放題にしていた。

母は無言で財布から銭をし、運転渡した。 玄関の引き戸をけると、湿った古い畳の匂いと、締め切られた空の埃っぽい空気が漂ってきた。 と何も変わらない、私の実の匂い。

「……あがるわよ」

私が靴を脱ぐと、母は背を向けたまま、刻みに震えるで玄関の鍵を閉めた。 ガチャリ、と内鍵がかかる音が、まるでの世界から逃げ込むための図のように、狭い玄関に響いた。

に入ると、暗い部の真んに置かれた座卓のに、埃をかぶったリモコンと、昨夜の残りと覚しき干からびた漬物の皿がそのままになっていた。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: