"母の職場で死んでいた私" 第17話
棒の音ではない。 誰かが気配を殺し、爪先ちで廊を歩く音だった。
続いて、カチャリと、玄関の鍵が静かに回される属音が響いた。
私はね起き、部をびした。 靴を履いたで階段を駆けりる。
玄関のに、があった。
母だった。
母は、昼のスーツではなく、着古したな茶のコートを着ていた。 元にはスニーカーを履き、には、使っていなかった古い型のボストンバッグを握りしめていた。 玄関の引き戸を、数センチだけけたところで、母は私の音に気づいてビクッと体を直させた。
に差し込む灯の暗いのに、母の青ざめた横顔が浮かびがった。
「……何してるの」
私の声は、く震えていた。
母は振り返らなかった。 ただ、ボストンバッグの持ちをくなるほどく握りしめている。
「お母さん。どこへく気?」
「……逃げるのよ」
母のから漏れたのは、絶望にひび割れた声だった。
「逃げるの。……もう、これしかないのよ。内さんのところへったんでしょう? あのが何て言ったか、聞かなくてもわかるわ。あのは曲がったことが嫌いなよ。私を絶対に許さない……会社も、警察に通報するかもしれない……」
母が、引き戸をさらにけようとした。 のたい湿った夜が、玄関のに吹き込んできた。
広告
「退職なんていらない。このも、も、全部差し押さえられてもいい。……でも、あんなところで、みんなに吊るしげられて、罵倒されるのだけは耐えられないのよ! 私、もうよ?! これから刑務所に入るか、町の笑い者になってきるなんて、そんなのんだ方がマシよ!」
「逃げて、どこへくの?!」
私はにびり、母のボストンバッグの持ちを掴んだ。
母のポケットから、枚の切れが滑り落ちた。 つ折りにされた、コンビニの発券用。 拾いげて見ると、それはの朝、方都のバスターミナルから発する、阪きの距夜バスの乗券だった。
「阪にって、どうするの?! りいもいないでしょう! おだって、そんなに持ってないはずじゃない!」
「何でもするわよ!」
母が叫び、バッグを力任せに引っ張った。 その拍子に、ボストンバッグのファスナーがき、から着や通帳、そして父のさな遺が転がりた。
「掃除婦でも皿洗いでも何でもやって、誰の目にも触れないところで野垂れんでやるわよ! あんただって、その方がいいでしょう?! 私みたいな恥らずの母親、最初からいなかった方がよかったんでしょう?! だからに、私を捨てて京へったんじゃないのッ!」
母の言葉が、夜の玄関に突き刺さった。
広告
。 あの朝、私が母に放った言葉。 『あんたの娘をやめてやる』。
母はずっと、その呪いに縛られていたのだ。 そして私もまた、母を縛り続けていた。
私は、母の腕を掴んだ。 昨夜、母が私を首が鬱血するほどく掴んだように、今度は私が、母の痩せ細った腕を両でしっかりと抱え込んだ。
「しなさいよ! してよ美紀! 私はかなきゃいけないの!」
母が暴れた。 私の胸を拳で叩き、髪を引っ張り、なりふり構わず逃げようとする。 その力は、驚くほどかった。 歳。 定を迎えるまで、毎毎、会社の顔を伺い、同僚の同に怯え、息を潜めてきてきた、ただのれな老女の力だった。
「さない!」
私は母を抱きすくめた。 のたいコンクリートのに、で崩れ落ちるように倒れ込んだ。
「さないよ、お母さん……!」
「なんでよ……! なんで邪魔するのよ! あんたには関係ないでしょう! あんたは京で、自分のをきてればいいじゃない!」
「関係あるよ!」
私は母の元で叫んだ。 涙が溢れて、母の濡れたコートの襟首に染み込んでいく。
「私が……私が最初にお母さんを殺したんだよ!」
母の暴れるきが、ピタリと止まった。
夜の玄関に、の荒い呼吸音だけがなりう。
「私、今、内部に会ってきた」
私は母の体を抱きしめたまま、震える声で告した。
「内部に言われたよ。
『君も母親を試していたのか』って。……その通りだった。私、専学をてからの、わざとお母さんに連絡しなかった。『私がんだとって苦しめばいい』って、のでずっとってた。
広告
おすすめ作品
-
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 0 -
完結第24話
妻の手術翌朝、七通の解約通知
妻が胆嚢ポリープの手術で入院した日、私は仕事を優先し「自分で処理しろ」と見舞いを断った。だが翌朝、私の携帯にマンションの駐車場、クレジットカード、父のデイサービスを含む七通の解約通知が立て続けに届く。カードは店頭で弾かれ、ビルのゲート前で立ち往生した私は、妻の報復を確信して病室のドアを乱暴に開けた。点滴に繋がれた妻は、今すぐ元に戻せと詰め寄る私の目の前で、スマートフォンの画面を静かに伏せた。怒り|夫婦|介護|修羅場3.7万字5 0 -
完結第23話
十八年ぶりの切符「次は三人で来い」
「二度と敷居を跨ぐな」――十八年前、父・源蔵の激しい怒声を背に村を飛び出した美雪。母の葬儀すら拒絶し、東京で夫の高一、息子の蒼太と平穏な家庭を築きながらも、心の奥に深い罪悪感を抱え続けていた。 ある秋の日、頑固一徹だった父が倒れたとの報せが届く。恐る恐る帰郷した美雪を迎えたのは、小さく老いさらばえた父の姿だった。互いに素直になれぬまま病室で交わしたわずかな言葉。だが、生家から持ち帰らされた重い桐箱と古いボストンバッグを開けた瞬間、美雪の息は止まる。 そこには、出金記録ゼロのまま膨れ上がった美雪名義の通帳と、十三年前の日付が記された「高一君へ」という父の手紙が眠っていた。父が十八年間隠し通してきた、想像を絶する真実とは――。真実|修羅場3.5万字5 0 -
完結第25話
義母の合鍵が入らない
結婚五年目、情緒不安定を理由に義母に家の合鍵を預けさせられた。夫は母を庇い、私に我慢を重ねるよう笑って求めた。義母の無断侵入は続き、私の大切な机まで雨のベランダへ放り出されたが、私は一度も怒鳴らなかった。一ヶ月後、いつものように合鍵で入ろうとした義母の前に現れたのは、鍵穴すら存在しない最新の電子錠だった。激怒して電話をかけてきた義母に対し、今まで母に逆らったことのなかった夫が「僕が鍵を変えた」と告げた。嫁姑|夫婦|親子関係|修羅場3.8万字5 0 -
完結第18話
ゴミ箱の隣に座る学年一位
学年1位を守り続けてきた娘が、二学期に入ると突然一番後ろの席に移動させられ、学級委員長も外された。何か処分を受けたのかと学校へ詰め寄る私に、娘は「この席でいいの」とだけ言い、何も説明しようとしない。納得できないまま迎えた参観日、教室の後ろに立つ私は、娘の隣にぽつんと置かれた空っぽの机に気づいた。誰の席なのかと問い詰める私に、担任は教室の隅を見つめ、「娘さんが残してくれと頼んできたんです」と静かに告げた。怒り|真実|孤獨|親子関係|修羅場2.8万字5 0 -
完結第18話
診察室に入れなかった私
妊娠七ヶ月、甲斐甲斐しく尽くす夫の言葉に従い、私は毎回待合室で温かい茶を飲んで待っていた。「異常なし」と笑う夫を疑ったことはない。だが夫が仕事で不在となり、初めて一人で診察室に入ると、医師は冷徹な面持ちで私を見据えた。向けられたパソコンの画面には、私が頑なに治療を拒み、夫が必死に説得したという記録が三回連続で並んでいた。その三回とも、私は一度も診察室に足を踏み入れていない。裡切られた|夫婦|裡の顔|修羅場2.8万字5 4 -
完結第25話
一度も抱かれなかった娘
出産翌日に姿を消した妻の代わりに、私は男手一つで娘を育ててきた。「母親は抱っこも拒んで逃げた」と言い聞かせ続けて五年。カルテの保管期限が切れ、産院に呼び出された私の前に置かれたのは、妻が失踪直前に提出した母子同室申請書と一枚のガーゼだった。申請書の最下段には私の拒否印が押されており、持ち帰った鞄からこぼれ落ちた布を拾い上げた五歳の娘は、ピンクの刺繍を指でなぞりながら私を見上げた。夫婦|真相|行方不明|親子関係3.8万字5 0