"一万八千円の伝票" 第3話
「あの……ないをさせてしまい、本当に申し訳ありません……」
林さんは周囲の様子を怯えるように気にしながら、蚊の鳴くようなさな声でをげた。グラスを持つ指先が、刻みに震えている。
「あなたは何も悪くありませんよ、林さん」
私が静かに微笑みながらそう答えると、彼女は今にも泣きしそうな表で目を見張った。
「でも……あのお会計のことですが、実は――」
彼女が切迫した様子で何かを言いかけた、そのだった。
ドス、ドスと、を々しく踏みしめる音が、背の通からづいてきた。 林さんがビクッと肩をねがらせ、弾かれたように私の傍らからサッとを引いた。その怯え切った過剰な反応だけで、づいてくる物が普段から従業員たちをどれほど過酷に、暴力な威圧をもって支配しているかが、痛いほど伝わってきた。
「お待たせいたしました。――私が支配のです」
く、よく通る、自信に満ち溢れた声だった。 仕ての良い級そうなオーダーメイドのチャコールグレースーツをにまとい、元には鏡のようにピカピカに磨きげられた革靴を履いている。ポマードで隙なく撫でつけられた髪、えられた眉、そして元には、貼り付けたようなっぺらい営業用の笑みを浮かべていた。
、夫のに会ったよりも、随分と恰幅が良くなっていた。
広告
顎のには贅肉がつき、態度は横柄さを増している。 彼こそが、夫が血を注いで築きげたこのホテルを、わずか数で私欲の巣窟へと変果てさせた張本だった。
支配は、ったまま私の顔をからへと瞥した。その双眸に宿っていたのは、隠しようもないあからさまな見しのだった。
「お客様、当ホテルの料システムにご満がおありだと伺いました。ですが、私どもの施設をご利用いただいている以、規定の料はお支払いいただかなくては困りますね」
彼は私の元にある製の伝票てを、入れのき届いた指先で軽く叩いた。
「万千円。決して、お支払いになれないほど法な額ではないはずですがね。……もしお持ちわせがないようでしたら、ご族の方にでもご連絡を――」
そこまで滑らかに言いかけた支配の言葉が、喉の奥で急にピタリと止まった。
彼の線が、テーブルの隅に置かれていた、私の古い万のクリップに縫い付けられたのだ。 クリップの根元にさく刻まれた、特徴な桜の紋と、細い研磨の傷。夫・健が、創業に父から譲り受け、涯にわたって切にし続けた、世界に本しかない特注の蒔絵万だった。
の線が、万からゆっくりと、私の顔へといがってきた。
広告
彼が私の目元、の形、そして静かに彼を見据える差しを真正面から捉えた瞬――彼の顔から、まるで潮が引くように、さっと血の毛が引いていった。
「…………え?」
作り物の笑みが引き攣り、頰の肉が痙攣したようにピクピクと波打った。額のえ際から、じわりと粒のや汗が滲みし、脂ぎった皮膚を伝い落ちる。
「な……ぜ……」
支配が掠れた声でさく呻くと同に、周囲の張り詰めていた空気が、まるで氷点に達したかのように凍りついた。 巻きに様子を伺っていたも、何が起きたのか理解できず、怪訝そうに眉を寄せて支配の青ざめた横顔を見つめている。
私は子にく腰掛けたまま、微だにせず、静かにを見げた。
「――お久しぶりですね、さん。私のホテルの居は、いかがですか?」
支配はまだらない。 私がこの、息を潜めてこの館内を歩き回り、彼が裏でめていた恐るべき計画の証拠を、すでにそののに収め始めていることを。
支配の顔は、まるで真昼ので本物の幽霊と対峙したかのように、青く抜けていた。 彼は私の顔と、テーブルのに置かれた夫の万とを、何度も何度も線でき来させている。先ほどまで全から漂わせていた、あの傲で堂々とした態度は、と消えっていた。
「お……オ、オーナー……? な、なぜ、ここに……」
支配の声は酷くかすれ、喉の奥に骨でも刺さったかのように途切れ途切れだった。
広告
おすすめ作品
-
完結第14話
二千四百万の罠と偽りの解雇
「もう入らなくていい。本日付で解雇だ」 月曜の朝、ゲートで社員証を弾かれた私に、上司は冷酷に告げた。四年間心血を注いだ再生企画の責任者名を横取りされた翌日、手渡されたのは理由なき『解雇通知書』。 理不尽に追放されかけた私だったが、内部監査から突如、私名義で申請された「二千四百八十万円」もの不正稟議の存在を告げられる。 窮地に立たされた私を陥れた者たちは知らなかった。私が社内でただ「会長」と呼ぶ女性の正体と、消されたはずのサーバーに残る決定的な記録を――。 「では、神矢会長を呼んでください」 私が録音を開始したスマホを置いた時、役員フロアの空気が一変する。職場逆転|真相2.1万字5 1167 -
完結第11話
妊婦を狙う老人と十一月の凶刃
「妊婦は立て!奇形が産まれるぞ!」 早朝の電車内、妊婦を怒鳴りつける老人に激昂し、詰め寄ってホームへ追い払った会社員の成瀬涼。だが座席の下に落ちていた老人の定期券の裏には、戦慄のメモが挟まれていた。 『十一月十七日 東都産婦人科 産ませるな 絶対に殺す』 日付は明後日。七年前に母を自死で失った涼は、その朝、病院の物陰で張り込む。午前九時十五分、現れた老人のポケットから閃いた一本の果物ナイフ。 電柱へ組み伏せた涼の背後から、駆け寄った妊婦の悲鳴が響く。 「お義父さん……!?」 老人が隠し続けた、血塗られた過去とは。怒り|真相1.7万字5 1098 -
完結第11話
運転手は何歳?教室に響く告発
「お前の父さんはバス運転手なのに、自分の歳も教えないのか」 算数のテストで一人だけ理不尽な赤バツをつけられ、教室で嘲笑された小三の息子。 問題は『あなたはバスの運転手です。運転手は何歳ですか』。息子が記した答えは、震える文字の「わかりません」だった。 去年の11月20日夜8時45分、豪雨の中で少年の命を救いながら、有力者の妻に理不尽な土下座を強いられた父の姿を、息子はずっと心に刻んでいたのだ。 迎えた授業参観。正装の制服姿で現れた父が教室で再生した一本のドラレコ映像が、仕組まれた嘘を暴き出す。 その時、涙を拭った息子が黒板の前で下した「決断」とは――。真相1.6万字5 1776 -
完結第16話
通訳を笑われた家政婦は、会長が20年前に捨てた娘
60億円規模の投資契約を目前に、ドイツ語通訳が事故で欠席。窮地に陥った大和グループで「私がやります」と名乗り出たのは、3年間ほとんど口も利かず働いてきた家政婦・森下美咲だった。 「家政婦の分際で」と会長・神崎大造に嘲笑され、失敗すれば即解雇、成功すれば月給10倍という条件を突きつけられるが、美咲は完璧なドイツ語で会談を進め、120ページの契約書に潜む不利な条項まで見抜いてしまう。さらに5か国語を操る知識と実力に投資家側も驚愕し、美咲をプロジェクトの中核に据えなければ契約しないと要求する。追い詰められた大造の前で、美咲はついに20年間封印してきた本名を告げる。「神崎美咲です。会長の娘です」 彼女こそ、妊娠8か月の冬の夜に大造自身が家から追い出した実の娘だった。20年越しの再会で、美咲が本当に取り戻そうとしていたものが明らかになっていく――。職場逆転|修羅場2.4万字5 7090 -
完結第23話
奪われた手柄と残された受領印
「開発担当の名前、成瀬君に変えておいたから」三ヶ月不眠不休で作った新システムの企画書から、友春の名前は消されていた。机の下で手を重ねる後輩と、冷たく婚約破棄を告げる霞。すべてを奪われ雨の夜に倒れた友春は、なぜか「あの会議の前日」に目を覚ます。 二度と他人の踏み台にはならない――友春は綿密な引き継ぎと受領印だけを残し、即日退職を叩きつけて姿を消した。 迎えた本番発表会、後輩が「見栄え」のために独断で削除した安全装置が、大観衆の前で最悪の暴走を始める。「頼む、戻って直してくれ!」すがる元上司に、友春が突きつけた言葉とは――。職場逆転|真相3.4万字5 221 -
完結第27話
毒蛇から社長を救った男を笑った人事部長
「元自衛官の筋肉バカが東大卒だと嘘をつくな」――六本木のIT企業の面接で、主人公は人事部長・郷田に履歴書を床へ投げ捨てられた。 だが彼は、ただの求職者ではない。採用不正を暴くため正体を隠して潜入していた元特殊作戦群の自衛官であり、裏では巨大企業グループを率いる人物だった。調査を進めると、郷田と甥の健太が縁故採用と裏金工作を繰り返し、不正資金は約3億5000万円に達していることが判明する。 さらに2人は、親会社の名を騙って正義感の強い美咲社長を失脚させようとしていた。しかも美咲は2年前、山中で自分を救った名も知らぬ自衛官を探し続けていた。その救命者こそ、今「筋肉バカ」と嘲笑されている男だったのだ。そして決戦の日、美咲が差し出した古い認識票に刻まれていたのは、数兆円を動かす神道グループ頂点の紋章だった――。職場逆転|人生逆転4.1万字5 1249 -
完結第14話
式1時間前の略奪と百八十万円
「ごめん。結婚やめる。私この人と一緒になるから」 挙式まであと1時間。控室で純白のドレスを着た婚約者の隣に立っていたのは、家具職人の俺・蒼介の元上司だった。 新居のために手渡した180万円を持ち逃げされ、住まいも仕事も奪われ絶望の淵に立たされた俺。だがその時、息を切らして控室へ飛び込んできたのは、婚約者の妹・こよりだった。 大量の不在着信を残していた彼女の手には、姉が3週間前に交わしていた「別の賃貸契約書」が握られていた。 激昂する姉の前で、こよりは俺の冷え切った手を強く握り締め、真っ直ぐに言い放つ。 「じゃあ私が先輩を幸せにしても文句ないよね」夫婦|真相2.1万字5 371 -
完結第41話
無一文の清掃員に届いた出前丼(
「出ていけとは言わないけど、月6万じゃ足りないのよ」 父が遺した家も土地も兄夫婦に奪われ、実家で「居候の厄介者」と罵られる清掃員のみさえ。9年間の壮絶なワンオペ介護も義姉に「全部私たちがやった」と親戚中に嘘を吹聴され、反論すら許されない。 だが、父の一周忌の座敷で義姉が得意げに嘘を重ねていたその時、玄関の戸が開き、この街の頂点に立つ巨大企業の社長が喪服姿で姿を現す。男の腕に抱かれていたのは、底に藍色の焼き印が刻まれた「12年前の古い出前丼」だった――。 息を呑む親戚一同の前で、男は畳の上に丼を置き、冷ややかに告げた。 「このご家族は、私と彼女に何一つ関係ありません」相続|真相6.2万字5 311