みかん小説
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"一万八千円の伝票" 第4話

すぐ傍らに控えていた若い林さんが、さく息を呑む音が聞こえた。厨簾の脇から笑を浮かべてこちらを覗き見ていたも、支配のただならぬ狼狽ぶりに気圧されたのか、怪訝そうに首を傾げている。「オーナー」という言葉が指し示す現実のみを、若い従業員たちはまだ正確には呑み込めていないようだった。

私は膝のを組み、を交えない平坦な声音で告げた。

「……し静かな所で、お話ししましょうか」

私が落ち着いた声でそう促すと、支配はビクッと袈裟に肩を震わせた。 に返ったように激しく瞬きを繰り返すと、彼は慌てふためいて周囲を見回し、固まっている従業員たちに向けて、裏返りそうな鋭い声を浴びせかけた。

「な、何を見ている! おたちは持ちに戻れ! このお客様は……私の、昔からの古いいだ。私が直々に対応する!」

でまくしたてるその調は、、彼が何かろ暗いミスを誤魔化そうとするに必ず見せていた癖そのものだった。 そうにを鳴らし、踵を返して厨の奥へと消えていった。だが、林さんだけは、何かをすがるような、そして激しく案じるような瞳で私を度振り返り、名残惜しそうにっていった。その女の純粋で痛切な線だけが、悪に侵されたこのホテルに残された、唯の救いのようにじられた。

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「さ、さあ……こちらへどうぞ、オーナー」

支配にペコペコと背を丸めながら促され、私はゆっくりとがった。 め切った炊き込みご飯の膳と、千円の伝票を残し、レストランの自ドアを抜けてホテルの奥くへと歩をめる。

彼のについて廊みながら、私は壁やの隅々に線をらせた。 かつて私の夫である健が、毎朝誰よりもく起きて、腰をかがめてピカピカに磨きげていた欅の無垢材の幅は、ワックスが完全に剥がれ落ち、くすんだに変していた。窓辺の飾り棚に目を向ければ、季折々の野のけられていたはずの瓶には、っぽい原の造が無造作に突っ込まれており、そのびらにはうっすらとく埃が積もっている。

胸の奥が、万力で締め付けられるように痛んだ。

このホテルは、私と夫がの歳をかけ、脚で慈しむように育てげてきた所だった。 最初は、客がたったのしかない、あいの古びたさな旅館だったのだ。夫は毎朝、凍えるような真の寒さのでも、誰よりもく起きて玄関の打ちと掃き掃除を欠かさなかった。たい井戸で何度も何度も雑巾を絞る夫のは、いつも真っ赤に腫れがり、痛々しくひび割れていた。それでも健は、「玄関はお客様が最初にを踏み入れる、宿の顔だからね」

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と言って、い息を吐きながら誇らしげに笑っていたのだ。

私たちには、豪華絢爛な最の設備など用できなかった。 だからこそ、嘘偽りのないからの笑顔と、どこよりも温かい細やかなもてなしだけは絶対に放すまいと、固く誓いっていたのだ。訪れてくださるお客様のひとりの顔と名を覚え、お好みの付けや材のアレルギーをさなノートに細かく記録する。にずぶ濡れになって到着されたお客様には、言われるに温かいお茶と、乾燥でふっくらと温めた乾いたタオルを差しす。そんな、目に見えないさな誠の積みねだけが、このホテルの確かな信頼と歴史を紡いできたはずだった。

だが、――夫の健が脳血で触れもなく倒れ、そのまま帰らぬとなった。 半をもぎ取られたようない絶望としみのあまり、私もまたを追うように臓の病に倒れた。術の末、命は取り留めたものの、医師からはの絶対静と療養施設での活を宣告されたのだった。

ホテルの経営の第線にち続けることは、当の私の衰しきった体には到底能だった。 いっそのこと建物を売却して幕を引くべきかとも悩んだ。だが、夫が涯の血と汗を注ぎ込んで遺したこの所を、どうしても放す気にはなれなかったのだ。

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