"教室の最後列に座る元教員" 第1話
教の引き戸を細くけた瞬、の奥をくすぐったのは、く嗅ぎ慣れたはずの匂いだった。
埃の混じったワックスの油気、乾いたチョークの、そしての温かい。
半ばの曜。県の組の教には、ほどの保護者が集まっていた。半は代半から代の母親たちで、のトレンチコートや物のカーディガンをにまとっている。
そので、をにした髪交じりの私が、最列の片隅に背筋を伸ばして座っている景は、どう見ても異様だった。
私は膝のに置いたさな革の提げを両で押さえ、胸元につけた来客用のプラスチック製名札を確かめた。表面には油性ペンで『保護者』とだけ印刷されている。
方の黒板には、担任の若い男性教師によって、った文字で今度の事予定と指導方針がきされていた。
「……活の最初のつまずきは、庭での些細な変化を見逃すことから始まります。何か気になることがあれば、些細なことでも担任までご相談ください」
若い教師ののこもった声が、教のスピーカーを通じてく響く。
私は教師の言葉を聞きながら、線を列の背に落としていた。
周囲の父親たちのようなったスーツ姿ではない。
広告
紺の作業用ジャンパーの背には、何度洗っても落ちない油染みが、黒い図のように染み付いている。がっしりとした広い肩は、わずかにに傾き、猫背気に丸められていた。
健。
その男の首筋には、の労働で焼きついたい赤褐が刻まれていた。く刈り込まれた髪にはいものが目ち、襟のあたりは無造作に伸びている。
彼は担任が配ったプリントの束を、分く荒れた指先で枚ずつ、ぎこちなくめくっていた。爪の隙には、械油の黒い線がくっきりと残っている。
彼が膝ので両をく握り締め、指の関節をくさせるたびに、私の臓はたい氷を押し当てられたように縮みがった。
(健君……)
声にはさない。のでその名を呼ぶだけで、喉の奥に苦い鉄のが広がっていく。
この教にいる誰として、私がこのの母親でも、祖母でもないことをらない。
それどころか、の席で背を丸めている父親――健の息子である『悠』という徒の顔すら、私はまともに見たことがなかった。
私は彼の授業を担当したこともなければ、入学式で言葉を交わしたこともない。
それでも私は、この席に座らなければならなかった。
いや、座らずにはいられなかったのだ。
学の、そしてこのに入学してからの。
広告
私はに度、必ずこの男の背を見届けるためだけに、保護者会という名のの領域に潜り込み続けていた。
担任が「それでは、各班に分かれて簡単な自己紹介を」と告げた瞬、私は音をてずにパイプ子から腰を浮かせた。
これ以残っていれば、周囲の母親たちから「おばあさまですか?」と声をかけられる。あるいは、方の彼が振り返ってしまうかもしれない。
私は会釈をするふりをしてをげ、け放たれたろのドアから廊へと滑りた。
のが差し込むい渡り廊には、運部の掛け声がくから反響していた。私は胸にを当て、乱れた呼吸をえながら、急ぎで階段をりた。
靴箱で持参した履きをビニール袋にしまい、自分の古びた革靴に履き替える。
(今も、無事に終わった)
そう自分に言い聞かせ、へ向かって歩きした私のを、鋭い声が止めた。
「――柴田先ですね」
振り返ると、徒昇の脇にある来客受付のひさしのに、の男がっていた。
代半ば。仕ての良い濃紺のスーツに、教育委員会特の威圧をわずかに漂わせたその物の顔を、私はすぐにいした。
だった。
私がに定退職した、第学の現であり、現は学区の全管理連携委員として側の運営にも関わっている物だ。
私が現役の教諭だった頃、彼はまだ隣の学の主幹教諭で、研究授業の席で何度か言葉を交わしたことがあった。
広告
おすすめ作品
-
完結第19話
完璧な夫に給料を突き返した朝
毎月二十五日、夫は手取り四十五万円の給料を一円も引かずに私の口座へ振り込み、親戚の前で完璧な夫として称賛されている。だがその裏で、私は息子の塾代を払うために結婚五周年の指輪を買取店へ持ち込んでいた。固定費と夫のカード代だけで毎月赤字が続き、私の独身時代の貯金も底をついた。翌朝、いつも通り振り込まれた四十五万円の通知を見つめた私は、その全額をそのまま夫の口座へ送金し、スマートフォンの画面を伏せた。嫁姑|夫婦|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第18話
「この子は俺の子じゃない」
二十六時間に及ぶ難産を終え、産室を出た私を待っていたのは双方の両親の涙と祝福だった。だが壁際に立つ夫は一歩も近寄らず、「この子は俺の子じゃない」と冷たく言い放った。色めき立つ義父母から不倫を激しく追及される中、私の口から咄嗟に出たのは無実を叫ぶ声ではなく、「今日だけは言わない約束でしょ」という悲鳴だった。冷え切った目で私を見下ろす夫の手が、私のカーディガンの前立てにかかる。裡切られた|兄弟姉妹|夫婦|修羅場2.7万字5 2 -
完結第20話
祖母は十二年年賀状を書いてない
八十歳を迎えた祖母のため、私はいとこたちと過去十二年分の年賀状を集めて記念のアルバムを作った。毎年元旦に届く「元気に暮らしています、トマトがたくさん実りました」という三行は、遠方で暮らす私たちが実家の無事を疑わずに済む確かな証拠だった。だが親戚一同が集まる祝宴の席でアルバムを開いた瞬間、祖母は整った文字を見つめ、十二年間一度も年賀状など書いていないと言い放った。親族の視線が一斉に、実家の近くで暮らす叔母へと向かう。孤獨|親子関係|介護|認知症3.0万字5 0 -
完結第21話
優しい教室で震える息子
息子が突然学校に行けなくなり、担任は「いじめなどなくクラス全員に愛されている」と胸を張った。不審に思った私が息子のランドセルを調べると、底板の裏から三十七枚の給食費受領書が出てくる。我が家は困窮などしていないのに、三ヶ月間、生徒全員が日替わりで息子の昼食代を立て替えていた。私が学校へ確かめに行こうとした瞬間、息子は「言わないで」と叫んで床に泣き崩れ、その紙片を必死に胸へ抱え込んだ。怒り|裡の顔|親子関係|金銭問題3.2万字5 0 -
完結第15話
五人の元彼と三万一千円
結婚式当日の朝、ホテルのフロントに差出人不明の現金書留が五通届いた。中身はすべて、三万一千四百八十円という奇妙な端数のご祝儀だった。面識のない私の歴代の元彼五人からだと気づき、私は血の気を引かせて金庫への保管を頼み込む。だが、不審に思った夫が私の手提げから抜き取ったのは、三週間前に私がその五人へ同額を送金した明細だった。親族紹介まであと十五分、夫は控え室の鍵を閉め、冷たい目で私を見下ろした。夫婦|裡の顔|金銭問題|修羅場2.2万字5 19 -
完結第23話
母の職場で死んでいた私
母の定年退職をサプライズで祝うため、私は東京から新幹線に乗り宴会場へ駆けつけた。お祝いの品を手にして扉を開けた瞬間、母の同僚は手にしたグラスを取り落とし、顔を青ざめて後ずさりした。毎年盆と正月には実家へ顔を出し、仕送りも続けていたはずの私は、母が二十八年勤めた職場では十五年前に事故で亡くなった娘として扱われていた。ステージを駆け下りてきた母は私の手首を強く掴み、そのまま非常階段へと力任せに引きずり出した。親不孝|親子関係|退職金|修羅場3.5万字5 33 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 55