"目覚めた部下にクビを問われた" 第1話
病のドアノブにをかけたとき、私のの指先はかすかに震えていた。
喉の奥には、まだ煙の苦いがこびりついている。 気傷のせいで、息を吸い込むたびに胸の奥がチクチクと痛んだ。だが、そんな自分の痛みなどどうでもよかった。
、私が総支配を務める方旅館「翠閣(すいすいかく)」の別館で災が発した。 厨のダクトからがったのは、老朽化した造の渡り廊を伝って瞬くに別館階へと燃え広がった。 夜の災。平の宿泊客は名。 惨事になりかけたその夜、誰として者がなかったのは、奇跡ではない。
彼女が、いたからだ。
客部主任、森美(なかもり・かずみ)。歳。 翠閣に勤め、館内のすべての柱の位置から畳の傷の数まで把握している、現の誰もが頼りにする女性だった。 煙が充満する別館に単引き返し、避難経の奥に取り残されていた齢の夫婦をへ誘導したのが彼女だった。 だが彼女自は、逃げ遅れた客を非常階段へ押しした直、廊の井が崩落した際の衝撃波で吹きばされ、部を打した。
それから、識の体。 集治療から般病棟へ移されたという連絡を受け、私は病院の廊をほとんどるようにして駆けつけたのだ。
広告
「森さん……」
私は呼吸をつして、静かにドアを押しけた。
午の病には、初の柔らかい差しが差し込んでいた。 ベッドので、い病を着た森さんが体をしだけ起こしていた。 額には痛々しい包帯が巻かれ、顔の半分には煙の煤を拭いったあとの擦り傷が赤く残っている。
目をけていた。 焦点をわせようと、まばたきを繰り返している。
「森さん! 気がついたんですね……よかった。本当によかった……」
私は堵のあまり、膝から崩れ落ちそうになりながらベッドサイドへ歩み寄った。 喉の痛みを忘れ、声を震わせていた。 客は全員無事だったこと。あなたが助けたご夫婦も、軽いやけどで済んだこと。何より、あなたがきていてくれたこと。 言いたいことはほどあった。この、現を共に背負い、何度も激論を交わしながら旅館の改革をめてきた、誰よりも信頼する戦友に向けた言葉が、私の喉まで溢れ返っていた。
私は、無識に彼女の掛け布団のに置かれたへ、労うようにを伸ばしかけた。
その瞬だった。
「ひっ……!」
く、息を呑むような鳴が病に響いた。
森さんの細い肩が、まるでを浴びせられたかのようにねがった。 彼女は私のを避けるように、全の筋肉を直させてベッドの柵へと背を押し当てたのだ。
広告
掛け布団を喉元まで引きげ、怯えきった物のようにを縮めている。
その目は、見らぬ猛獣を見るかのように、見かれていた。 瞳の奥にあるのは、謝でも、還の堵でもない。 ただ、剥きしの恐怖と、防本能だった。
私の伸ばしかけたは、きを失って空で止まった。
「森……さん?」
私の困惑した声に、彼女は歯の根をガタガタと鳴らしながら、線をへと落とした。 そして、かすれた、今にも消え入りそうな声で、こう言ったのだ。
「申し訳、ございません……坂井、支配……」
「え?」
「私……まだ、私物が……ロッカーに残ったままで……今、取りにこうと、っていたところで……」
彼女の額から、脂汗が滲みていた。 両でシーツを痛いほど握りしめ、まるでこれから宣告される処分を待つ罪のように、刻みに震えている。
そして、絞りすように紡がれた言葉が、私の胸を鋭利な刃物で貫いた。
「……私、もうクビになったんでしょうか?」
病の空気が、完全に凍りついた。
くのナースステーションから聞こえるナースコールの子音だけが、障りに響いていた。
クビ? 何を言っているんだ。 彼女は翠閣の最の功労者だ。私が最も頼りにし、本社の理尽な求から守り抜くと誓った、唯の理解者ではないのか。
「何を……言っているんですか、森さん。解雇だなんて、そんなわけが」
私が歩踏みそうとした瞬、背のカーテンが勢いよく引かれた。
「先! 先を呼びますから、あなた、がってください!」
広告
おすすめ作品
-
完結第14話
二千四百万の罠と偽りの解雇
「もう入らなくていい。本日付で解雇だ」 月曜の朝、ゲートで社員証を弾かれた私に、上司は冷酷に告げた。四年間心血を注いだ再生企画の責任者名を横取りされた翌日、手渡されたのは理由なき『解雇通知書』。 理不尽に追放されかけた私だったが、内部監査から突如、私名義で申請された「二千四百八十万円」もの不正稟議の存在を告げられる。 窮地に立たされた私を陥れた者たちは知らなかった。私が社内でただ「会長」と呼ぶ女性の正体と、消されたはずのサーバーに残る決定的な記録を――。 「では、神矢会長を呼んでください」 私が録音を開始したスマホを置いた時、役員フロアの空気が一変する。職場逆転|真相2.1万字5 1355 -
完結第11話
豪邸を奪う義母と一枚の公正証書
「今日から同居ね。この一番大きな部屋でいいわよ」 庭付き一戸建てを購入した翌朝、引っ越し業者を引き連れた元義母が土足で新居に乗り込んできた。 中卒の元専業主婦と見下され、「不倫女」と理不尽に罵倒されるユイ。だが義母は知らなかった。その家はユイが自力で買い取ったもので、夫とは半年前に離婚済みだったことを。 「慰謝料代わりにこの家を寄越しなさい!」 逆上する義母の前に、ユイは一枚の「公正証書」を突きつける。 ある「不審なメモ」から暴かれた、夫と実の妹によるおぞましい裏切りとは――。 「この名前、誰だか分かりますか?」嫁姑|修羅場1.6万字5 470 -
完結第14話
余命3か月と嘘をついた夫は、離婚後の3000億円を知らない
夫・翔太から「すい臓がん末期で余命3か月」と告げられ、突然離婚を求められたゆい。だが診断書は偽物で、翔太には2年以上関係を続ける愛人・リナがいた。 ゆいは騙されたふりをして離婚に応じる。なぜなら父が残した信託には、婚姻関係が解消された瞬間、3000億円の一族資産が彼女へ移る条件が設定されていたからだ。 さらに翔太には会社資金約5000万円の横領まで発覚する。 莫大な資産を手にしたゆいは、父の顧問弁護士ハルトと共に元夫とその一族へ反撃を開始。ところが調査の果てに、翔太がゆいへ近づいた本当の理由が、20年以上前から続く両家の復讐にあったことを知る。 金と裏切りだけでは終わらない、父世代から仕組まれていた巨大な秘密が姿を現していく――。夫婦|修羅場|不倫2.2万字5 180 -
完結第11話
認知症に仕立てた息子夫婦が奪った実印は偽物だった
雪の降る夕方、はる子は息子・健二と嫁・さやかに「ドライブへ行こう」と誘われ、そのまま人里離れた介護ホームへ置き去りにされる。携帯電話まで奪われ、外出も自由にできない中、彼女はようやく「息子夫婦に捨てられた」と悟った。 さらに2人は、はる子に正体不明の薬を飲ませて混乱させ、認知症の診断を取ろうとしていた。 目的は、失敗したカフェ経営で消えた3000万円と、闇金から借りた2000万円を穴埋めするため、成年後見制度を利用して母の通帳と家を奪うことだった。 しかしはる子は密かに認知症のふりを続け、ズボンに隠したペン型録音機で「後見人になれば通帳も家も私たちのもの」という嫁の声を記録する。 何も分からない老人を演じながら、彼女は息子夫婦が自ら罠に入る瞬間を静かに待ち始める――。親不孝|金銭問題|修羅場1.6万字5 351 -
完結第16話
通訳を笑われた家政婦は、会長が20年前に捨てた娘
60億円規模の投資契約を目前に、ドイツ語通訳が事故で欠席。窮地に陥った大和グループで「私がやります」と名乗り出たのは、3年間ほとんど口も利かず働いてきた家政婦・森下美咲だった。 「家政婦の分際で」と会長・神崎大造に嘲笑され、失敗すれば即解雇、成功すれば月給10倍という条件を突きつけられるが、美咲は完璧なドイツ語で会談を進め、120ページの契約書に潜む不利な条項まで見抜いてしまう。さらに5か国語を操る知識と実力に投資家側も驚愕し、美咲をプロジェクトの中核に据えなければ契約しないと要求する。追い詰められた大造の前で、美咲はついに20年間封印してきた本名を告げる。「神崎美咲です。会長の娘です」 彼女こそ、妊娠8か月の冬の夜に大造自身が家から追い出した実の娘だった。20年越しの再会で、美咲が本当に取り戻そうとしていたものが明らかになっていく――。職場逆転|修羅場2.4万字5 7101 -
完結第23話
奪われた手柄と残された受領印
「開発担当の名前、成瀬君に変えておいたから」三ヶ月不眠不休で作った新システムの企画書から、友春の名前は消されていた。机の下で手を重ねる後輩と、冷たく婚約破棄を告げる霞。すべてを奪われ雨の夜に倒れた友春は、なぜか「あの会議の前日」に目を覚ます。 二度と他人の踏み台にはならない――友春は綿密な引き継ぎと受領印だけを残し、即日退職を叩きつけて姿を消した。 迎えた本番発表会、後輩が「見栄え」のために独断で削除した安全装置が、大観衆の前で最悪の暴走を始める。「頼む、戻って直してくれ!」すがる元上司に、友春が突きつけた言葉とは――。職場逆転|真相3.4万字5 222 -
完結第11話
出世ゴルフの朝、沈黙した妻
「一生話しかけるな。口を開いたら即離婚だ」 そう怒鳴り散らし寝室に鍵をかけた夫。翌朝、出世が懸かった役員ゴルフの起床予定から2時間半が過ぎていた。真琴は夫の言いつけを忠実に守り、一切声を出さず「起きる時間だよー」とLINEを1通だけ送信する。 午前7時15分、泡を吹いてパニックで飛び出していく夫。だが、彼が置き忘れた鍵で書斎を開けた真琴は息を呑む。そこにあったのは、3400万円に及ぶ不正なリベート記録と、真琴の実印を悪用して設立されたペーパーカンパニーの書類だった。 夫の恐るべき企みを知った真琴は、冷たく微笑み受話器を取る。「もしもし、弁護士先生――」夫婦|真実1.7万字5 808 -
完結第27話
月5000円を貯めて泊まった旅館で、妻が「お嬢様」と呼ばれた
手取り23万円の配送ドライバー・かずやは、毎月5000円を5年間貯め、妻・彩佳と10歳の娘・ゆいを初めての家族旅行へ連れていく。ところが山奥の旅館へ着いた瞬間、出迎えた老紳士は彩佳に深々と頭を下げ、「お嬢様、お帰りなさいませ」と告げた。 実は彩佳は、創業150年を超える老舗旅館の一人娘だった。 かつて父の勧めで結婚した夫は旅館の信用と財産を利用しようとし、離婚して幼いゆいを連れ戻った彩佳に対しても、父は娘の苦しみより「旅館の評判」を優先した。 それ以来、実家を離れ質素に生きてきた彼女は、5年越しの旅行を機にようやく過去と向き合う決意をする。突然明かされた妻の素性に戸惑うかずやだったが、「俺が家族になりたかったのは彩佳とゆいだ」と伝える。 そしてこの旅は、長く閉ざされていた親子3代の関係を大きく動かしていく――。夫婦|第二の人生|修羅場4.1万字5 1248 -
完結第27話
毒蛇から社長を救った男を笑った人事部長
「元自衛官の筋肉バカが東大卒だと嘘をつくな」――六本木のIT企業の面接で、主人公は人事部長・郷田に履歴書を床へ投げ捨てられた。 だが彼は、ただの求職者ではない。採用不正を暴くため正体を隠して潜入していた元特殊作戦群の自衛官であり、裏では巨大企業グループを率いる人物だった。調査を進めると、郷田と甥の健太が縁故採用と裏金工作を繰り返し、不正資金は約3億5000万円に達していることが判明する。 さらに2人は、親会社の名を騙って正義感の強い美咲社長を失脚させようとしていた。しかも美咲は2年前、山中で自分を救った名も知らぬ自衛官を探し続けていた。その救命者こそ、今「筋肉バカ」と嘲笑されている男だったのだ。そして決戦の日、美咲が差し出した古い認識票に刻まれていたのは、数兆円を動かす神道グループ頂点の紋章だった――。職場逆転|人生逆転4.1万字5 1249