"目覚めた部下にクビを問われた" 第11話
矢野の制止の声を背に聞き流しながら、私は階へとがった。
階の廊は、井の膏ボードが無惨に焼け落ち、鉄骨が剥きしになっていた。 壁のクロスはで膨れのようにめくれがり、窓から差し込むが、空気を漂うの粒子を照らししている。
元には、消ホースので濡れそぼったカーペットの残骸。 私は森さんが発見された所――階の奥、非常階段へと続く防扉のへと歩みをめた。
問題の防扉は、消防によってこじけられた状態で固定されていた。 な鉄の扉。その表面には、逃げ遅れた宿泊客が必に叩いたのであろう、掌の煤の跡が々しく残っていた。
そして、面。 扉の部、に埋め込まれた受け具の穴に、太い属製の「固定ピン」が確かに差し込まれていた。 本来なら、災にはこのピンがれ、扉がスプリングの力で自に閉まりつつも、バーを押せば避難できる構造になっている。 だが、このピンがで押し込まれ、さらに錆びついたロックレバーが噛みわされていたせいで、扉は完全に『かずの壁』と化していたのだ。
(誰が、なぜこのピンを落とした……?)
森さんが頃の巡回で、誤ってこのピンを押し込むことなどあり得ない。 彼女は毎の朝礼で、「非常扉の元には絶対に物を置くな、ピンの稼働を確認しろ」
広告
と、を酸っぱくしてスタッフに指導していただ。
私は周囲を見渡した。 燃え殻と瓦礫の。 そのとき、廊の隅、半焼した客清掃用の型カートが横倒しになっているのが目に入った。
リネン類は黒焦げになり、アメニティのプラスチックがで溶けて飴のようにに張り付いている。 災当夜、森さんが使っていたカートだ。
私は膝をつき、がスーツのズボンに染み込むのも構わずに、倒れたカートのを覗き込んだ。 焼け落ちた井の膏ボードの破片を、素でつずつ除けていく。 指先に鋭い痛みがったが、を止めることはできなかった。
「何か……何か残しているはずだ。森さん、あなたがぶらでここを歩くはずがない……」
彼女は、現の鬼だった。 どんな些細な具も、どんな客の望も、すべてそのでメモを取り、自らので管理しなければ気が済まない性分だった。
瓦礫を掻き分けた私の指先が、い属の角に触れた。
「……あった」
引っ張りしたのは、真っ黒に煤けた、業務用のアルミ製バインダーだった。 でバインダーの角が歪み、プラスチックのクリップ部分は溶け落ちていたが、に挟まれていたのプラスチック――耐性の客管理シートが、奇跡に燃え残っていた。
私は震えるで、煤を払った。
そこにかれていたのは、油性ボールペンによる、几帳面な森さんの跡だった。
広告
『301号 渡辺様 避難完 19:42』 『303号 空確認済』 『305号 松井様 子介助 へ引き継ぎ 19:45』
付は、災当夜。 は、警報が鳴り響いてからの、分刻みの記録だった。
息が止まりそうになった。 彼女は、パニックになって逃げ惑っていたのではなかった。 煙が充満し、いつ爆発が起きてもおかしくない極限状態のなかで、ひとりの客の部をノックし、避難を確認し、このシートにチェックを入れていたのだ。 そして、最まで残されていた『308号 の悪い齢夫婦』の欄には、赤ペンでの丸がつけられていた。
彼女は、この夫婦を救いすために、命をかけて戻ったのだ。 自分の過失を隠蔽するためになどではない。 、この翠閣で客の命を預かってきた、のプロフェッショナルとしての誇りそのものが、この焦げたシートに刻み込まれていた。
「やっぱり……あなたは、そういうだ……」
いものが込みげ、界が歪んだ。 彼女はの屈辱も、私へのみも、何もかもを超えた所で、ただ目のの客を救うために戦っていたのだ。
だが、これだけでは本社の松永を黙らせることはできない。 避難誘導の功績は証できても、「なぜ防扉がかなかったのか」という根本な疑惑はれないからだ。
私は祈るようないで、バインダーの具を押し広げ、シートの裏側をめくった。
広告
おすすめ作品
-
完結第19話
棺の中の男を、夫は知らない
親を捨てて逃げた冷酷な男だと親族中から罵倒される義兄の葬儀で、義母は涙を流し、夫を支えの孝行息子だと称えていた。だが焼香台へ進む夫の前に立ちはだかった私は、「あなた、本当に棺の中にいるその人を知っているの」と告げた。夫が隠していたのは、過去五年間、毎月義兄へ送り続け、そのたびに全額突き返されていた六十回分の送金記録だった。血の気を引かせる夫と親戚の前で、私はその明細を祭壇の上に広げた。兄弟姉妹|親不孝|絶縁|親子関係|修羅場2.8万字5 0 -
完結第21話
妹のドレスを二十センチ切った
妹の結婚式を数時間後に控えた深夜二時、私はリビングで特注のウェディングドレスに裁ち鋏を入れた。事故で右足に傷が残る妹に対し、相手の家族は配慮という名目で足を隠す重いドレスを強要し、当日は動かず座り続けるよう言い含めていた。母の怒声が響き、私の頬に平手打ちが飛ぶ。泣き崩れる妹の足元には、前裾だけが二十センチ切り落とされた純白の布が散らばっていた。私は鋏を置き、「今日これを着て出なさい」とだけ告げた。裡切られた|兄弟姉妹|裡の顔|親子関係|修羅場3.1万字5 0 -
完結第28話
離婚11日後、私に9億8000万円が当たった
「子供を抱えて一人で生きていけると思うのか」――13年間連れ添った夫・達也は、離婚の最後まで私を見下していた。娘の教育資金80万円を無断で投資に使いながら、「家族の金だ」と開き直った男。私は娘・日向を守るため、傷だらけの結婚生活に終止符を打った。だが離婚からわずか11日後、何気なく買った宝くじが約9億8000万円の高額当選を果たす。 人生を変える大金――それでも私は誰にも秘密を明かさなかった。ところが娘を連れて頼った実家では、母から「達也さんに謝りなさい」と門前払いされる。味方だと思っていた家族さえ、私の意思より世間体を選んだのだ。 もう二度と、誰かに人生を支配させない。金に頼って復讐するのではなく、自分の意思で生き直すと決めた私。だが、約10億円という秘密が知られた時、元夫と家族の本当の顔が暴かれ始める――。修羅場|熟年離婚4.1万字5 0 -
完結第21話
母を遠ざける姉の嘘
長野で一人暮らす母の介護を一手に担う姉から「母の体調が悪化するから来るな」と言われ、私は五年間帰省を控え、毎月五万円の仕送りを続けていた。だがある夜、母から五年ぶりに直接電話が入る。「まだ怒ってるの。あんたが私の顔も見たくないと言っていたと姉から聞いた」と母は怯えていた。直後に受話器を奪った姉は「母の被害妄想だ」と言い放つ。不審に思った私は姉に告げず始発の新幹線に乗り、五年ぶりに実家の引き戸を開けた。兄弟姉妹|裡の顔|親子関係|介護3.2万字5 0 -
完結第19話
完璧な夫に給料を突き返した朝
毎月二十五日、夫は手取り四十五万円の給料を一円も引かずに私の口座へ振り込み、親戚の前で完璧な夫として称賛されている。だがその裏で、私は息子の塾代を払うために結婚五周年の指輪を買取店へ持ち込んでいた。固定費と夫のカード代だけで毎月赤字が続き、私の独身時代の貯金も底をついた。翌朝、いつも通り振り込まれた四十五万円の通知を見つめた私は、その全額をそのまま夫の口座へ送金し、スマートフォンの画面を伏せた。嫁姑|夫婦|金銭問題|修羅場2.9万字5 20 -
完結第20話
教室の最後列に座る元教員
定年退職した元教員の私は、一度も教えたことのない男子生徒の保護者会に、身元を偽って六年間通い続けていた。教室の最後列から見つめる先には、油まみれの作業着を着た父親が座っている。受付簿の不審な記録に気づいた校長から昇降口で問い詰められた帰り道、桜が散る坂道でその父親が私の前に立ちふさがった。二十四年前の元教え子だったその男は、振り返りもせず、私の背中に向けて「あの席、あと何年座るつもりですか」と低く告げ怒り|真実|親子関係|修羅場3.1万字5 7 -
完結第18話
「この子は俺の子じゃない」
二十六時間に及ぶ難産を終え、産室を出た私を待っていたのは双方の両親の涙と祝福だった。だが壁際に立つ夫は一歩も近寄らず、「この子は俺の子じゃない」と冷たく言い放った。色めき立つ義父母から不倫を激しく追及される中、私の口から咄嗟に出たのは無実を叫ぶ声ではなく、「今日だけは言わない約束でしょ」という悲鳴だった。冷え切った目で私を見下ろす夫の手が、私のカーディガンの前立てにかかる。裡切られた|兄弟姉妹|夫婦|修羅場2.7万字5 21 -
完結第30話
一万八千円の伝票
病を克服し、身なりを隠して自らのホテルへ宿泊客として訪れたオーナー・佐藤かず子。亡き夫と四十年にわたり心血を注いできた老舗ホテルは、かつての温もりを失い、強欲な支配人・中村の私欲に侵されていた。 きっかけは、わずか千八百円の粗末な昼定食に突きつけられた「一万八千円」の法外な伝票。中村たちは気の弱そうな高齢客を狙って組織的なぼったくりを繰り返し、さらにはホテルそのものを外資系ファンドへ売り飛ばそうと目論んでいた。 無力な老婆と侮られ、嘲笑と脅迫を受けるかず子。だが彼女の手には、亡き夫の誇りである一本の「蒔絵万年筆」と、深夜に掴んだ決定的な「裏帳簿」の証拠があった。誇りを泥靴で踏みにじられた元女将の、静かなる大反撃が今、幕を開ける――。職場逆転|真相4.6万字5 1459