"母がナイフで砕いた自分の名前" 第1話
座の老舗本料理、その掘りごたつの個には、甘ったるい百ののりと、等な汁の匂いが混ざりって充満していた。
歳、古希の祝い。
主賓の席に座る母・佐伯子は、兄夫婦が用したのちゃんちゃんこを羽織り、所なさそうに両を膝のでねていた。背をし丸め、親戚たちの乾杯の音に、壊れ物を扱うような頼りない微笑みを返している。
「子さんもいよいよか。はどうなるかとったけど、拓也が逝ってからも派にを守って、子どもたちを育てげて。本当に、佐伯の誇りだよ」
父の弟である叔父が、赤ら顔でビールグラスを掲げながら言った。
「本当にそうですよ。お義母さんは、いつだって自分のことより族が最優先でしたから」
兄・の妻である優さんが、際よく鉢を取り分けながら相槌を打つ。
母はただ、「滅相もないことです」「私なんて、何も」と、消え入りそうな声でさくをげていた。
その姿は、私が物ついた頃から見慣れた、いつもの母そのものだった。 自己主張をせず、りもせず、夫である父のろに歩がって従い、舅と姑の介護を取り、夫を取り、ただ「佐伯の妻」「佐伯の母」として、ものあいだ輪郭を消し続けてきた女の姿。
私は、自分の膝ので握りしめたバッグのい触を確かめた。
広告
のひらに、じっとりとたい汗が滲んでいる。
「——あ、ケーキ届いたみたいね。真由、頼んでおいてくれたんだろ?」
兄の声に、私は線をげた。 仲居さんが、きな平たい箱を恭しく運んできた。私が半から都内の名パティスリーに特注していた、古希を祝う純のショートケーキだ。母の好物である粒の桃が、これでもかというほど贅沢に敷き詰められている。
央には、扇の形をした特注のホワイトチョコレートプレート。 そこには、のシロップで、流麗な文字が躍っていた。
『祝 古希 佐伯子お母さん 歳のお誕おめでとう』
「うわあ、綺麗! お義母さん、見てください、すごいですよ」 「まあ……こんな派なものを。真由、ありがとうね。勿体ないくらいだわ」
母が目尻の皺をめ、細い指先で元を押さえた。その指には、父が遺した細のプラチナの結婚指輪が、皮膚にい込むように嵌められたままだ。
がスマホを構え、「はい、お母さんこっち向いて、笑って!」と声をかける。 のの子どもたちが、パチパチと無邪気に拍を鳴らした。
平で、美しく、どこまでも完璧な族の肖像。 かけて母を押し潰し、そのに築きげられた、無菌のような幸福。
私の臓が、の奥で鐘を打ち始めた。 肋骨の内側が、い鉄で焼かれるように疼く。
広告
私はちがった。
「真由? どうした、ろうそくのを消すのが先だろ」
兄の言葉を無して、私はテーブルの央へ歩み寄った。 ケーキの脇に添えられていた、細のシルバーのケーキナイフをに取る。
「お母さん」
私は静かに言った。母が議そうに私を見げる。
「何だい、真由」
私はナイフの切先を、真っなケーキの央——あの美しい扇形のチョコレートプレートへと向けた。 そして、ためらうことなく、刃の腹をプレートの表面に当てた。
ガリッ、と、静かな部に吉な音が響いた。
「おい、真由!?」
兄が制止の声をげるよりもく、私は首に力を込めた。 ガリガリ、ガリッ。 いホワイトチョコレートの表面を、の刃が削り取っていく。のシロップでかれていた『佐』の字が削れ、いとなって桃の果肉のに散った。続いて『伯』の字の偏が削られ、旁が々に砕け散る。
ほんの秒ほどの来事だった。 プレートの側、にわたって母を縛り付けてきた夫の姓が、無残な削り屑となって掻き消された。
部のの空気が、瞬で氷点まで凍りついた。 誰も息をしていない。子どもたちの拍のが止まり、叔父の掲げたグラスが空で止まり、優さんの引きつった笑顔が仮面のように固まっていた。
「……てめえ、何やってんだ!」
が子を蹴ててちがった。
畳が軋む音が響く。 の顔はりで真っ赤に染まり、額に太い青筋が浮きていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第20話
長女にだけ渡された鍵
父の四十九日。「お前が一番しっかりしている」と病床の父から金庫の鍵を託された長女の私は、弟と妹の前で鉄の扉を開けた。だが中にあった私の通帳は残高一万円で、二百八十万円あった預金は弟の名義で全額引き出されていた。問い詰める私に弟は「親父に頼まれた」と父の直筆の手紙を突きつけ、妹も父と交わした別の密約を叫び始める。そこへ男が現れ、父が実家を担保に借りた五百万円の借用書を突きつけてきた。裡切られた|兄弟姉妹|相続|金銭問題|修羅場3.0万字5 0 -
完結第19話
棺の中の男を、夫は知らない
親を捨てて逃げた冷酷な男だと親族中から罵倒される義兄の葬儀で、義母は涙を流し、夫を支えの孝行息子だと称えていた。だが焼香台へ進む夫の前に立ちはだかった私は、「あなた、本当に棺の中にいるその人を知っているの」と告げた。夫が隠していたのは、過去五年間、毎月義兄へ送り続け、そのたびに全額突き返されていた六十回分の送金記録だった。血の気を引かせる夫と親戚の前で、私はその明細を祭壇の上に広げた。兄弟姉妹|親不孝|絶縁|親子関係|修羅場2.8万字5 0 -
完結第21話
妹のドレスを二十センチ切った
妹の結婚式を数時間後に控えた深夜二時、私はリビングで特注のウェディングドレスに裁ち鋏を入れた。事故で右足に傷が残る妹に対し、相手の家族は配慮という名目で足を隠す重いドレスを強要し、当日は動かず座り続けるよう言い含めていた。母の怒声が響き、私の頬に平手打ちが飛ぶ。泣き崩れる妹の足元には、前裾だけが二十センチ切り落とされた純白の布が散らばっていた。私は鋏を置き、「今日これを着て出なさい」とだけ告げた。裡切られた|兄弟姉妹|裡の顔|親子関係|修羅場3.1万字5 0 -
完結第28話
離婚11日後、私に9億8000万円が当たった
「子供を抱えて一人で生きていけると思うのか」――13年間連れ添った夫・達也は、離婚の最後まで私を見下していた。娘の教育資金80万円を無断で投資に使いながら、「家族の金だ」と開き直った男。私は娘・日向を守るため、傷だらけの結婚生活に終止符を打った。だが離婚からわずか11日後、何気なく買った宝くじが約9億8000万円の高額当選を果たす。 人生を変える大金――それでも私は誰にも秘密を明かさなかった。ところが娘を連れて頼った実家では、母から「達也さんに謝りなさい」と門前払いされる。味方だと思っていた家族さえ、私の意思より世間体を選んだのだ。 もう二度と、誰かに人生を支配させない。金に頼って復讐するのではなく、自分の意思で生き直すと決めた私。だが、約10億円という秘密が知られた時、元夫と家族の本当の顔が暴かれ始める――。修羅場|熟年離婚4.1万字5 267 -
完結第24話
目覚めた部下にクビを問われた
地方旅館の火災で客を救い出し重傷を負った部下が目を覚ました。だが彼女の記憶は直近の二年分が抜け落ち、着任初日の私が冷酷に解雇を迫った日のまま止まっていた。会社は避難扉が開かなかった責任を彼女の記憶喪失に乗じて背負わせようと、退職金の支払いを口実に過失を認める書類への署名を病室で迫る。何も思い出せない部下は震える手でペンを握り、かつて自分を追い詰めたはずの私を怯えた目で見つめた。職場逆転|真実|裡の顔|修羅場3.7万字5 6