みかん小説
本棚

"母がナイフで砕いた自分の名前" 第16話

「おが佐伯のにどれだけの迷惑をかけたか忘れるな」って。俺は子どもったよ。俺のこの首の痕が、母さんを縛り首にしてるんだって』

……」

『母さんは、あの名を捨てたかったんじゃない。捨てなきゃきていけなかったんだよ。俺をするためには、槙野子を殺し続けるしかなかったんだ。……それをおは』

の言葉が途切れた。 責めるような語気ではなかった。 ただ、果てしない絶望がそこにあった。

『母さん、世田を売ったも、親父の遺産も、全部俺の座に振り込んできたよ。「、これで全部だから。もう私には何も残っていないから」って、話で言ってた』

「え……?」

『今から連絡があって分かったんだ。あんな額、受け取れるわけないだろ。母さん、今、完全に糸が切れてる。自分というを、この世から消しようとしてるんだよ』

臓が、凍りついた。

『許してください。私はまた、に触れてしまいました』 あの畳半の部に落ちていた、鉛のメモ。 名を削り落とされた形たち。 そして、全財産を息子に渡し、空っぽになった母。

母は、歳の誕に、私によって過のパンドラの箱を暴かれ、息子に対する最の防波堤すら失ってしまったのだ。

、私……今すぐ京に戻る」

『戻ってどうするんだよ! また「お母さん、本当の自分を取り戻して」

広告

って説教でもする気か?!』

「しない!」

私はがっていた。 待々が驚いたように私を見るのも構わず、話に向かって叫んでいた。

「しないよ……そんなこと、絶対にしない! 私は……私は取り返しのつかないことをした。お父さんたちと同じことをしたの。自分の都のいい『お母さん』を、母さんに押し付けたんだ!」

話を切り、私は幹線の改札へ向かってした。

で濡れたブーツが滑りそうになる。 息が切れ、肺がたい空気で焼けるように痛む。

お父さんは、「佐伯の良妻賢母」であることを母にした。 そして私は、「自した誇りき表現者」であることを母にしたのだ。

誰も。 夫も、姑も、兄も、そして娘である私ですら。 佐伯子でもなく、槙野子でもない、ただの「あの」が何を望んでいるのかを、度たりとも尋ねたことはなかったのだ。

幹線のホームに駆けがると、きの最終列が、煙をげて滑り込んできた。

待っていて、お母さん。 なないで。消えないで。

私はもう、あなたに名を返そうなんて傲なことは言わない。 ただ、謝らせてほしい。 あなたのの血の滲むようなを、で踏み荒らした私の愚かさを、どうか許してほしい。

京駅のホームにったとき、夜の気がコートの襟元から容赦なく吹き込んできた。

広告

際の線は、酒の匂いと疲労にまみれたサラリーマンたちで満員だった。 吊り革に掴まりながら、私は窓に映る自分の顔を見つめていた。 メイクは剥げ落ち、目のには黒々とした隈が浮き、髪はのみぞれと汗でぼさぼさに乱れていた。

「自した女性」「母親を救う賢い娘」。 そんなっぽい板を掲げていた女の、これが無様な実だった。

岡の杉本先の言葉が、の奥で、臓の鼓なって脈打っていた。

『あんたがやったのはね、、血を流しながらやっとのいで塞いできた古傷に、焼けた箸を突っ込んで掻き回したのと同じだよ』

その通りだった。 私は何も見ていなかった。 母の沈黙を、ただの「封建制への屈」と決めつけ、母の慎ましさを「れな自己犠牲」と見していた。

私は、母が佐伯ので私と兄を育てるために、どれほどの血を流して自分の魂を縊り殺してきたのか、像しようともしなかった。 私が何自由なく学に通い、京での顔をして広告の仕事に就けたのは、母が、自分を「無」にして庭という底板を支え続けてくれたからだ。

それなのに、私はその台のに胡座をかいたまま、母のを「違い」だと否定した。 「お母さん、本当の名を取り戻して」と、から目線で免罪符をチラつかせたのだ。

それは父が母に「おは佐伯の妻としてきろ」と命じたのと、体何が違うというのか。

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: