"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第3話
興師の跡
志乃が倉庫へくと言うと、宗は最初反対した。「黒川との話は俺がつける。おは座の者と稽古をしていろ」。彼は座として志乃を守ろうとしたのだろう。だが守られる側に置かれたままでは、何を失うのかさえ分からない。志乃は障子のに座り、「稽古に使う装は劇の鍵の向こうです。まず、なぜ閉められたのかりたいんです」と言った。宗はしばらく黙り、を同させることにした。
倉庫のには、港で荷物を運ぶがいた。黒川の名をすと、片方が「ああ、あの旦か」とを鳴らした。の夕方、黒川が相良の番と激しく言い争っていたという。黒川は包みを胸に抱え、「約束が違う。役者の取り分は渡せ」と声を荒らげていた。番は「主の指図です」の点張りで、最には倉庫の奥へ入ったらしい。
「てきたのは?」と志乃が聞くと、は首をかしげた。「番だけは見た。黒川さんは分からん。裏からの方へ抜けるもあるからな」。倉庫に入れてもらうことはできなかったが、志乃はもうつ切な話を聞いた。黒川はの町から来た、この倉庫に台の割を置いていた。もともと劇に運ぶはずの荷だった。つまり相良は座の品を預かったに、装まで押さえていることになる。
帰り、はさな声で言った。
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「昔の興なら、こういうことは珍しくなかった。客からを取り、役者には次の町で払うと言い続ける。しまいに誰も勘定が分からなくなる」。志乃は「だったら、なぜ座は黒川さんに任せたんですか」と聞いた。はを止めた。「客を呼ぶ板を掛けるにも、町の顔役へ話を通すにも、旅の役者だけじゃできねえことがある。黒川はそこを引き受ける男だった」
福栄座へ戻ると、入には切符を持った客が、集まっていた。「返せないなら警察へく」と若い員が鳴っている。相良の番は、「払い戻しは興師の仕事です」と同じ言葉を繰り返していた。志乃はわずを挟んだ。「どの切符を何枚売ったのか、帳面を見せてもらえませんか」。番は目を細めた。「お嬢さん、昨も申しげましたが、役者はお芝居のことだけを考えてください」
「その芝居ができない理由を聞いているんです」。志乃は引かなかった。客の、乾物商の女主がのに入った。「そうよ。うちでも族の分を買った。誰が勘定を持っているかぐらい、教えておくれ」。番はようやく劇へ入り、しばらくしてい控え帳を持ってきた。そこには売った付と枚数が記されていたが、代の欄の部には横線が引かれていた。
志乃が指さすと、番の顔が変わった。「それは黒川さんの分です」
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。志乃は聞き直した。「黒川さんの分というのは、売げを受け取ったですか。それとも、から払うですか」。番は帳面を閉じた。「主をお呼びします」。奥から現れた相良は客のでは柔らかい笑みを崩さなかったが、志乃の元へ顔をづけて囁いた。「これ以、帳面を覗くなら、座の装はしばらくせませんよ」
客のに、の裾を何度も直す若い娘がいた。志乃が気づくと、娘は枚の券を握りしめていた。「父が仕事を休んで連れてきてくれたんです。私、あんな台を見たのは初めてで」。娘は言いかけてをつぐみ、志乃の顔を見た。「役者さんたちは、もうこの町へ来ないんですか」。志乃はすぐには答えられなかった。戻ってくると約束すれば、その約束もまた破るかもしれない。だから「決まったら、必ずらせます」と言った。娘は券を畳んで胸元へしまった。志乃はそのを見て、券というが勘定の証拠であるに、が楽しみに待ったの記録なのだとった。