"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第5話
消えた板役者
封筒のは、解の申しだった。座が今の公演をすべて取りやめ、観客への返について異議を申してないなら、相良は装箱を返し、旅館へのを支払う。さらに黒川の借については座へ直接請求しない、とあった。見すると悪い話ではなかった。けれど志乃が最のを読むと、胸がえた。『なお、本件に関し、福栄座および関係者への信用を損なう言を慎むこと』。何が起きたかを客に話すなということだった。
宗は番へ封筒を返した。「返事はする」。番は元をゆがめた。「の昼までに頂けなければ、装の保管に必な費用も増えます」。番が帰ると、おがため息をついた。「装さえ戻れば、次の町へける。受けた方がいいんじゃないの」。宗も迷っていた。志乃には分かった。い旅で子どもを育てた者も、病の親を養う者もいる。座を保つためには、の正義だけではりない。
それでも志乃は言った。「承すれば、お客さんには座が勝に逃げたことになる。から別の町で番付を掛けても、の町の話が追いかけてきます」。は畳に置いた煙管を取り、「そうだな。装が戻っても名をなくしたら、商売は続かねえ」とうなずいた。結局、宗は解を保留にしたまま、志乃とで福栄座へ向かった。
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相良は帳でそろばんをはじいていた。志乃たちを見ると、わざわざ子を勧めた。「役者さんには気の毒なことをしました。こちらも損をしているんですよ」。宗は装の返還を求め、預けた品をつずつ読みげた。相良は「細を確かめましょう」と答えたが、肝の鍵を持つ番はだと言う。は夕方まで待たされ、結局箱も受け取れなかった。
その頃、志乃は町の印刷・田慎吾を訪ねていた。昨夜、客席で座に鳴っていた若い男である。慎吾は活字を並べるを止め、「切符を買った者に番付を刷れと言うのか」と言った。志乃はをげ、「お代はから必ず払いますとは言いません。最初に何枚刷るか、今払えるのはいくらか、相談させてください」と答えた。慎吾は初めて志乃の顔を正面から見た。「そういう話なら、座れ」
印刷所のさな机で、志乃はしい興の案を説した。翌々の午、借りられる所が見つかれば客を招き、の切符を持つ者にはまず事をらせる。払戻しを望む者への窓を設け、しい芝居の切符は別に売る。慎吾は「座が売ったことにするなら、売げと経費を誰が記す」と聞いた。志乃が「私がきます」と答えると、彼は帳簿のつけ方まで説した。
夕方、旅館へ戻ると、宗が廊に座っていた。
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彼の膝には伊之助の煙入れが置かれていた。「伊之助がいない」と宗は言った。「朝から荷物もない。宿の女が、駅の方へ歩くのを見たそうだ」。志乃の腹の底がくなった。伊之助はの自主公演で主役を務めるはずだった。板役者の名を印刷しなければ、切符も売りにくい。
宗が差ししたには、い言葉が並んでいた。『次の町の興を引き受けた。の見込みのない台にはてない。装と台本の件は、清算する』。志乃は奥の棚をいた。『浜の灯』の清原稿を入れた呂敷がない。自分が夜ごとき直した半の台も、そのにある。宗が「代役をてればいい」と言った、廊の端からおの声がした。「誰が代わるの。あの役は最まで男が台を引っ張るんだよ」。志乃は何も言えなかった。刷るはずの番付には、もう主役の名を入れる所だけが空いていた。