"大正11年、幕開けの土下座から始まった女優の再起" 第6話
主役のいない稽古
夜け、志乃は伊之助が寝ていた部へ入った。布団は畳まれていたが、壁の釘に掛けた拭いだけが残っていた。伊之助は決して怠け者ではなかった。旅から旅へ移っても毎朝声をし、台をに入れるのは誰よりかった。だからこそ、逃げるようにった事実が、座の者にはひどくくのしかかった。「あいつを卑怯者と決めるなよ」とが言った。「ただ、った奴ので幕はけられねえ」
志乃は『浜の灯』の初稿を取りした。旅の途、切れ端へいた台をつなぎわせたもので、役者へ渡すのき損じもい。もともと『浜の灯』は宗が昔演じていた芝居で、志乃は辺の町の女が父の帰りを待ち続ける役を、もっときたとしてき直したかった。その願いでき始めた原稿だったが、伊之助が演じる乗りの台ばかりがに残されていた。彼がいなければ、筋そのものが途で折れてしまう。
座は座を集めた。古くから女形も務めた役者の栄助が「男の主役なら代われる」と申したが、彼は旅で声を痛めており、い台には耐えられなかった。おは「誰がやっても客は伊之助目当てで来る」と言った。沈黙が続いたところで、志乃がをいた。「主役を替えませんか」。宗が眉をげる。
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「役者を、というか」。志乃は原稿を広げた。「物語の主役をです。乗りが帰ってくるかどうかじゃなく、待つ女が何を選ぶかの話にすればいい」
おが笑った。「そんな話を、を払って見に来るがいるかね」。志乃は腹がったが、言い返さずに最初の面を読んだ。波止で夫を待つ女が、網を繕いながら々の勘定をつけている。彼女は待ち続けるだけのではない。帰ってくるか分からない者のために暮らしを止めておけないだ。志乃が読み終えると、惣太が「それなら、うちの母ちゃんにも分かる」と呟いた。その言葉が、議に座の空気を変えた。
ただし台の準備には装がる。宗は相良の敷へ再び向き、預けた座の装と具を返すよう話しった。相良は結局、劇側が保管の必を主張できない品について引き渡すことを認めたが、すべては戻らなかった。古い装は受け取れても、伊之助が着た主役用の着物は倉庫にないという。志乃は旅館の女将から針と糸を借り、自分のな単をほどいて台用に仕て直した。
夕方、印刷所の慎吾が試し刷りを持ってきた。そこには『朝座 改作狂言 浜の灯』とあり、演者の番に志乃の名が置かれていた。志乃はその名を見て、うれしさより恐ろしさを覚えた。
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今までは失敗しても板役者のに隠れられたが、今回は逃げがない。慎吾が「き直すなら今のうちだ」と言うと、志乃はを両で押さえた。「このままでお願いします」。その晩から、旅館の物干しが稽古になった。
昼の稽古で志乃は度同じところを違えた。栄助が苛って声をげると、おは「違える所が分かっているなら、そこから直せばいい」と稽古を止めた。志乃は自分のいた言葉だから誰よりに言えるとっていた。ところが、ので正しい台も、にすると息が続かない。観客へ届くまでのに、がぼやけてしまう。宗は客席の番ろへ座り、「が怖いなら声にも怖さを入れろ。平気なふりをするな」と言った。志乃は何度も台を言い直した。脚本をいた者も、台では皆と同じように稽古をしなければならないのだった。