"遺体の上で眠り続けた十四年" 第9話
すべての点と点が、本の血塗られた線となって結ばれた、由里がじたのは、恐怖を通り越した圧倒な吐き気と、魂が根底から汚濁に染まってしまったかのような絶望だった。 自分は妻としてされていたのではなかった。 あの々に交わされた穏やかな会話も、記に贈られた束も、優しげに見えた夫の微笑みも、そのすべては、の体を隠蔽するための台装置に過ぎなかったのだ。 自分は、神崎怜奈という女性の無残な遺体のに置かれた、ただの「」だったのだ。 夫が真夜に寝を抜けし、へりていく気配をじながらも、「詮索してはならない」という夫の酷な脅迫に怯え、毛布を被って震えていた。その無と臆病さが、結果として者の尊厳を踏みにじり、彼女の魂を暗黒ののにも閉じ込め続ける共犯関係を形作っていたのではないか――。 その自責のは、鋭利な刃物となって由里の胸を昼夜問わず抉り続けた。
事件の発覚、由里は神崎怜奈の遺族の元へ向かった。 都内にある神崎の実は、という歳のみと、娘を突然失った嘆によって、静かに褪せていた。 玄関先で座をし、額をたいに擦り付けて泣き崩れる由里を、怜奈の父は髪混じりのを垂れたまま、しばらく無言で見つめていた。
広告
母は、遺となった美しく微笑む怜奈の写真を胸に抱きしめ、ただ声もなく涙を流していた。 「……顔をげてください、奥さん」 絞りすような、ひび割れた怜奈の父の声が落ちてきた。 「あなたを責めるつもりはありません。……あなたもまた、あの男の狂気に巻き込まれ、を弄ばれた被害者だということは、警察からも聞いています」 「申し訳……ありませんでした……! 私が、もっとく気付いていれば……あの部の異常に、もっとく踏み込んでいれば……怜奈さんを、あんな暗くてたい所に、も……!」 「いいんです。もう、いいんです……」 父は、震えるで由里の肩にそっと触れた。その掌は氷のようにたかったが、どこまでも温かな慈が宿っていた。 「あの子は……怜奈は、に消えたのだと、たい波に攫われてどこかくへ流されてしまったのだと、私たちは、絶望ので諦めようとしていました。遺骨すら拾えないまま、命を迎えるたびにに向かってを投げることしかできなかった。……でも、あの子は戻ってきてくれた。あの子の無が、あの指輪の輝きが、あなたを通じて、ようやく私たちのもとへあの子を連れ戻してくれたんです。……どうか、ご自分を責めないでください」 その言葉は、罪の識に押し潰されかけていた由里のを、わずかに救いげてくれた。
広告
だが同に、彼女にはまだ果たさなければならない、最の務めが残されていることを痛させていた。
の終わりのある。 の張り詰めた寒波がわずかに緩み、相模湾の平線に淡いの陽が揺れる午だった。 由里は、鎌倉のあの敷へと向かっていた。 ノの極楽寺駅をり、鬱蒼とした松林に囲まれた坂を登る。潮の匂いが、記憶の底にある苦しい記憶を呼び覚まそうとするが、彼女の取りは以のように怯えてはいなかった。 腕には、駅ので買い求めた、輪のい百の束が抱えられていた。弁の先から、凛とした清冽なりがちっている。
別荘の周には、警察が張り巡らせていた黄い規制線テープの残骸が、にちぎれて力なく揺れていた。鑑識の捜査両も、報陣のカメラの放列も、すでに潮が引くようにっていた。残されたのは、ただ無残にに晒され、主を失って急速に朽ち果てつつある、古びた造の敷だけだった。 由里はポケットから錆びかけた鍵を取りし、い扉をけた。 キィィ……と蝶番がきしむ音が、静寂に沈んだ庭に響く。 雑の枯れ果てた庭を抜け、玄関の引き戸をける。 靴を脱ぎ、スリッパも履かずに板張りの廊へとがった。気がの裏からじんと伝わってくる。
廊の突き当たり、かつてもの、夫によってち入りを固く禁じられ、触れることすら許されなかったあの畳のが、ぽっかりとをけていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第14話
40度の熱で倒れた娘と、校門前の黒い高級車
40度を超える高熱で倒れた20歳の女子大生・桜。大学病院へ運ばれた彼女の身体から、医師は腰に広がる不自然なあざと、暴行を疑わせる損傷を発見する。 やがて桜は「脅迫されました」と涙ながらに告白。前夜、彼女を高級車に乗せた男は、金と人脈を持つ有名実業家・佐々木だった。 佐々木は奨学金や仕事の援助を装って近づき、拒絶すれば学生生活を壊すと脅していた。 さらに病院へ口封じの男たちまで送り込まれ、桜の携帯には脅迫メールや写真が残されていることが判明する。 そして捜査の最中、佐々木の車と関係する別の女子学生が失踪。自分だけの事件ではないと知った桜は、恐怖に震えながらも「もう沈黙しません」と証言を決意する――。真実|修羅場2.1万字5 1109 -
完結第11話
九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯
午前九時三十四分、地下鉄の車内で若い男が突如狂乱し、中年客の顔面を骨が軋むほど殴打した。床一面に飛び散る鮮血。だが、隣に座る同じ社章をつけた上司は、ただ口をあわあわと震わせ「腰を抜かして」座り込むだけだった。乗客たちと男を取り押さえ、駅員にすべてを通報した俺。しかし翌日、警察の発表も新聞の三面記事も、この凄惨な事件を「最初から存在しなかった」かのように完全に黙殺していた。なぜあの凄惨な暴力は一行も報道されず、駅の防犯カメラ映像すら消去されたのか。数年後、俺はある大手企業の役員名簿の中に、あの朝、冷たいホームの柱にすがってガタガタと震えていた「あの上司」の顔写真を見つけ、息を呑んだ――。ミステリー|真実1.6万字5 191 -
完結第24話
目覚めた部下にクビを問われた
地方旅館の火災で客を救い出し重傷を負った部下が目を覚ました。だが彼女の記憶は直近の二年分が抜け落ち、着任初日の私が冷酷に解雇を迫った日のまま止まっていた。会社は避難扉が開かなかった責任を彼女の記憶喪失に乗じて背負わせようと、退職金の支払いを口実に過失を認める書類への署名を病室で迫る。何も思い出せない部下は震える手でペンを握り、かつて自分を追い詰めたはずの私を怯えた目で見つめた。職場逆転|真実|裡の顔|修羅場3.7万字5 701 -
完結第20話
教室の最後列に座る元教員
定年退職した元教員の私は、一度も教えたことのない男子生徒の保護者会に、身元を偽って六年間通い続けていた。教室の最後列から見つめる先には、油まみれの作業着を着た父親が座っている。受付簿の不審な記録に気づいた校長から昇降口で問い詰められた帰り道、桜が散る坂道でその父親が私の前に立ちふさがった。二十四年前の元教え子だったその男は、振り返りもせず、私の背中に向けて「あの席、あと何年座るつもりですか」と低く告げ怒り|真実|親子関係|修羅場3.1万字5 123 -
完結第23話
十八年ぶりの切符「次は三人で来い」
「二度と敷居を跨ぐな」――十八年前、父・源蔵の激しい怒声を背に村を飛び出した美雪。母の葬儀すら拒絶し、東京で夫の高一、息子の蒼太と平穏な家庭を築きながらも、心の奥に深い罪悪感を抱え続けていた。 ある秋の日、頑固一徹だった父が倒れたとの報せが届く。恐る恐る帰郷した美雪を迎えたのは、小さく老いさらばえた父の姿だった。互いに素直になれぬまま病室で交わしたわずかな言葉。だが、生家から持ち帰らされた重い桐箱と古いボストンバッグを開けた瞬間、美雪の息は止まる。 そこには、出金記録ゼロのまま膨れ上がった美雪名義の通帳と、十三年前の日付が記された「高一君へ」という父の手紙が眠っていた。父が十八年間隠し通してきた、想像を絶する真実とは――。真実|修羅場3.5万字5 1026 -
完結第18話
ゴミ箱の隣に座る学年一位
学年1位を守り続けてきた娘が、二学期に入ると突然一番後ろの席に移動させられ、学級委員長も外された。何か処分を受けたのかと学校へ詰め寄る私に、娘は「この席でいいの」とだけ言い、何も説明しようとしない。納得できないまま迎えた参観日、教室の後ろに立つ私は、娘の隣にぽつんと置かれた空っぽの机に気づいた。誰の席なのかと問い詰める私に、担任は教室の隅を見つめ、「娘さんが残してくれと頼んできたんです」と静かに告げた。怒り|真実|孤獨|親子関係|修羅場2.8万字5 173 -
完結第25話
一度も抱かれなかった娘
出産翌日に姿を消した妻の代わりに、私は男手一つで娘を育ててきた。「母親は抱っこも拒んで逃げた」と言い聞かせ続けて五年。カルテの保管期限が切れ、産院に呼び出された私の前に置かれたのは、妻が失踪直前に提出した母子同室申請書と一枚のガーゼだった。申請書の最下段には私の拒否印が押されており、持ち帰った鞄からこぼれ落ちた布を拾い上げた五歳の娘は、ピンクの刺繍を指でなぞりながら私を見上げた。夫婦|真相|行方不明|親子関係3.8万字5 156 -
完結第17話
何番まで落ちたら離婚するの
三年連続で学年一位を取り続ける十二歳の息子。深夜まで勉強に付き添う私と、追い詰めるなと制する夫は、外食先でも教育方針を巡って激しく口論していた。沈黙していた息子は突然、「僕が何番まで落ちたら二人は離婚するの」と冷たく言い放ち、鞄から直近三回分のテスト用紙を取り出した。そこに並んでいたのは、最難関の応用問題だけが解かれ、一番簡単な基礎計算だけを全て意図的に間違えた、信じがたい異様な答案だった。夫婦|真実|親子関係|修羅場2.6万字5 623 -
完結第23話
父の逝った夜の車
父が亡くなって十八年、独身の伯父は私達三兄妹を支え続け、兄の就職も姉の結婚資金も工面してくれた。家族全員が恩人と慕う中、末っ子の私だけが幼い頃から伯父と二人きりを拒み、性格のせいだと呆れられていた。二十八歳のある日、会食の席で伯父が私の椅子を引いてくれた瞬間、鍵のかかっていた記憶が甦る。十八年前の嵐の深夜、泥まみれの母が一度だけ家に戻った時、街灯もない門前の暗闇で消灯したまま待っていたのは、伯父の車だった。兄弟姉妹|真実|親子関係|修羅場3.4万字5 991 -
完結第12話
午前五時の朝餉
母・加奈子を理不尽に追い出して七日目の朝。二重ロックで施錠されたはずの台所で、炊飯器のランプが黄色く灯っていた。「保温:28分」。蓋を開けると、湯気を立てる筍ご飯と、包丁立てから消えた一番重い三徳包丁。電源を抜いても、暗証番号を変えても、毎朝午前五時に届き続ける温かい米。やがて米の底から現れた“ある金属片”を境に、父と祖母の顔から血の気が引いていく。母はどこから入り、この家で何を見つめているのか。因果応報|嫁姑|真実|修羅場1.8万字5 1024