"妊婦を狙う老人と十一月の凶刃" 第4話
片の縁は、何度も指で擦られたのか、黒ずんで垢に汚れていた。
涼の背筋を、氷のような悪寒が駆け抜けた。
。それは、の曜だった。そして都産婦科は、涼がむアパートの隣町にある、域では名な総産科病院の名だった。
の揺れにわせて、涼の指先が刻みに震えた。
ただの通り魔な暴言老ではなかったのか。あの老が妊婦に向けて放った「奇形が産まれるぞ」「楽をするな」という狂気じみた言葉は、突発な癇癪などではなく、確な標と、病な執着に裏打ちされた呪縛の言葉だったのか。
涼は顔をげ、優先席に座る女性を見た。女性はフードを目に被り直し、祈るように両をお腹に当てて、さく丸まっていた。そのトートバッグに揺れるマタニティマークの裏側に、ふと、医療関の診察券が覗いているのが見えた。
『都産婦科』の文字が、そこにあった。
涼の臓が、ドクンと嫌な音をててねがった。
世界の歯が、狂った噛みわせのまま、急速に回転を始めている音が聞こえた。
品メーカーの方委託でのトラブル対応は、予通り、沼の極みだった。
は保のために虚偽の製造報を提しようとし、流通チェーンの品質管理担当者は声混じりに契約解除をちらつかせた。
広告
涼は夜まで現の作業員ひとりに聞き取りをい、ラインのセンサーの誤作によるパッキング良の証拠を淡々と積みげ、午を回る頃にようやく、誰の顔もてつつ会社の責任を最限に抑える玉虫の報告を完成させた。
「成瀬君、助かったよ。君は本当にこういう修羅にいね」
曜の昼、本社の会議で報告を終えたリスク管理の課は、脂ぎった顔で堵の息を漏らし、涼の肩を叩いた。そのの軽なみをじながら、涼は笑いひとつ浮かべずに類を鞄に仕った。
「仕事ですから」
「まあ、そうくならずにさ。代休、どこかで取っていいからね」
その「どこか」が永にやってこないことを、涼はよくっていた。課にとっては、涼がどれだけの眠を削り、どれだけの精神をすり減らしたかなどどうでもいいのだ。ただ、自分の子が脅かされずに済んだことだけがすべてだった。
そのの夕方、涼は自席でパソコンの画面を見つめながら、引きしの奥に隠した黒いパスケースの触を指先でいしていた。
警察に届けるべきだった。駅の遺失物取扱所に預けて、すべてを忘れるべきだった。あのメモにかれていた穏な文言も、見なかったことにすればよかったのだ。自分は警察官でもなければ、正義の方でもない。
広告
ただの、擦り切れた会社員に過ぎないのだから。
だが、あのの景が、網膜に焼き付いてれなかった。
怯えて震えていた妊婦の青い横顔。そして何より、老の元に自ら吹き込んだ、あの呪いのような言葉。
『あなたのお母さん、今どんな気持ちでしょうね』
あれを言った瞬、老の顔に浮かんだのは、単なるりや恐怖ではなかった。それは、魂の最部を素で抉りされただけが見せる、底なしの絶望と怨嗟のだった。なぜ、あの言葉があれほどまでに老に突き刺さったのか。
涼自の胸の奥にも、決してに触れさせない腐敗した傷があった。
涼の母親は、涼がのに自ら命を絶っていた。
方の閉鎖な町で、元の名士だった父親の度なる暴力と問題、そしてそれに伴う親族からの執拗な嫌がらせに耐えかねての狂乱の末の毒だった。母は、絵に描いたような「耐え忍ぶ女」だった。「に迷惑をかけてはいけない」「耐えていれば、いつか必ず報われる」。そう自分に言い聞かせるように微笑み、夫の理尽な鉄拳制裁にも、義母からの湿な言にも、度として声を荒らげて反論したことがなかった。
そして、あるのる朝、台所のでたくなって発見された。
遺には、ただ言、『ごめんなさい、もうできませんでした』とだけかれていた。
涼は、母をしていた。だが同に、底から軽蔑していた。
広告
おすすめ作品
-
完結第14話
「死産」と告げた院長と20年目の出生記録
20年前、出産した娘を「死産でした」と告げられた私・佐藤しず子。しかし私は、麻酔の中で確かに聞いた産声を一度も忘れられなかった。 真実を確かめるため、私は清英産婦人科医院の清掃員として20年間働き続け、誰にも気づかれず院内の秘密を探ってきた。そんなある夜、若い看護師から「まだ間に合います。あなたの娘さん生きています」と書かれた紙を渡される。 やがて地下の保管庫へ忍び込んだ私は、自分の出産記録の隣に「佐藤女児――転送」と記された手帳を発見する。 さらにそこには複数の新生児と金銭の記録まで残されていた。娘を奪ったのは誰なのか。そして病院は20年間、何を隠してきたのか。見下され続けた“掃除婦”は、集めた証拠を手に院長・安藤剛と対峙する――。真相|修羅場2.1万字5 416 -
完結第30話
宅配便を盗んだ隣家の息子と、箱から飛び出した蚊
ペットショップ店長のテツは、最近、自宅の宅配ボックスから荷物が何度も消えていることに気づく。犯人は隣家の少年・カズだったが、その背後にはPTA役員を務める母・チアキがいた。 テツが防犯カメラを設置すると、チアキが息子に荷物を持ち去らせている決定的な映像を確保。問い詰められた彼女は「近所同士の助け合い」と開き直り、逆に被害者を傷害罪で訴えると脅してきた。 しかし映像がPTAと警察へ渡ったことで事態は一変する。さらに調査が進むと、チアキは他のママ友の私物まで盗み、フリマアプリで転売していた常習犯だったことが発覚。 PTA役員の地位も家族からの信用も崩れ去る中、これまで「地域の平和を乱すな」と他人を責めてきた彼女自身が、地域で最も大きな問題だったことを突きつけられていく――。日常ホラー|怒り4.6万字5 0 -
完結第11話
運転手は何歳?教室に響く告発
「お前の父さんはバス運転手なのに、自分の歳も教えないのか」 算数のテストで一人だけ理不尽な赤バツをつけられ、教室で嘲笑された小三の息子。 問題は『あなたはバスの運転手です。運転手は何歳ですか』。息子が記した答えは、震える文字の「わかりません」だった。 去年の11月20日夜8時45分、豪雨の中で少年の命を救いながら、有力者の妻に理不尽な土下座を強いられた父の姿を、息子はずっと心に刻んでいたのだ。 迎えた授業参観。正装の制服姿で現れた父が教室で再生した一本のドラレコ映像が、仕組まれた嘘を暴き出す。 その時、涙を拭った息子が黒板の前で下した「決断」とは――。真相1.6万字5 1709 -
完結第14話
式1時間前の略奪と百八十万円
「ごめん。結婚やめる。私この人と一緒になるから」 挙式まであと1時間。控室で純白のドレスを着た婚約者の隣に立っていたのは、家具職人の俺・蒼介の元上司だった。 新居のために手渡した180万円を持ち逃げされ、住まいも仕事も奪われ絶望の淵に立たされた俺。だがその時、息を切らして控室へ飛び込んできたのは、婚約者の妹・こよりだった。 大量の不在着信を残していた彼女の手には、姉が3週間前に交わしていた「別の賃貸契約書」が握られていた。 激昂する姉の前で、こよりは俺の冷え切った手を強く握り締め、真っ直ぐに言い放つ。 「じゃあ私が先輩を幸せにしても文句ないよね」夫婦|真相2.1万字5 292 -
完結第41話
無一文の清掃員に届いた出前丼(
「出ていけとは言わないけど、月6万じゃ足りないのよ」 父が遺した家も土地も兄夫婦に奪われ、実家で「居候の厄介者」と罵られる清掃員のみさえ。9年間の壮絶なワンオペ介護も義姉に「全部私たちがやった」と親戚中に嘘を吹聴され、反論すら許されない。 だが、父の一周忌の座敷で義姉が得意げに嘘を重ねていたその時、玄関の戸が開き、この街の頂点に立つ巨大企業の社長が喪服姿で姿を現す。男の腕に抱かれていたのは、底に藍色の焼き印が刻まれた「12年前の古い出前丼」だった――。 息を呑む親戚一同の前で、男は畳の上に丼を置き、冷ややかに告げた。 「このご家族は、私と彼女に何一つ関係ありません」相続|真相6.2万字5 296 -
完結第18話
余命半年と嘘をつき、愛人と隠し子を選んだ夫
「俺はあと半年しか生きられない」――夫・健一から突然、肺がんによる余命宣告を告げられた恵子。しかしその夜、1人で人生を考えたいと言って出かけた夫は、隣町のスナックで若い女性・みほと会っていた。 幼馴染・香織が録音した会話から、健一が既婚者であることを隠してみほと関係を持ち、存在しない「軽井沢の豪邸」で一緒に暮らそうとしていることまで判明する。さらに健一は、妊娠中のみほとの子を「隠し子」と認め、「遺産は愛人と子供に渡すから、お前は我慢しろ」と恵子へ言い放つ。 だが恵子は夫の病気そのものを疑い始める。やがて健一が“証拠”として見せた診断書に、決定的な綻びが見つかる――。怒り|不倫2.7万字5 3461 -
完結第15話
全盲の義母が言い当てた味噌汁の色
「お味噌、白味噌に変えたでしょう?」。11年前の事故で全盲になったはずの義母・かず子が、漆塗りの椀を抱えて微笑んだ。亡き実母への後悔から、365日欠かさず介護と手料理を捧げてきた嫁の私。だが翌朝、ゴミ袋の底から現れたのは、手つかずのまま無残に捨てられた私の料理と、1万8千円の銀座高級寿司やフレンチのデリバリーレシート30枚だった。夫は「お前の味付けが悪い」と冷笑し取り合わない。孤立無援の中、弁護士の助言を得た私はある罠を仕掛ける。そして勝手口の前で義母が放った「ある一言」で、11年間の嘘が音を立てて崩れ去る――。嫁姑|真相2.3万字5 3174 -
完結第25話
底辺受付嬢を見下す役員たちの誤算
父の会社は、最も信頼していた人間の裏切りによって無惨に食い物にされた。巨額の負債を背負い、絶望の中で病に倒れた父。私はその冷酷な真相を暴くため、ハーバード大の博士号を隠し、ただの「受付嬢」として敵の中枢である星空グループに潜入した。 誰からも見下され、理不尽な侮辱に耐え忍ぶこと3年。息を潜めて集めた証拠が示したのは、あまりにも残酷な真実だった。父を破産に追い込み、私から全てを奪った黒幕の正体は、父が家族のように慕っていた古参役員だったのだ。 「黒幕は役員会の中にいる」――私を守るため、父が命懸けで残してくれた最期のメッセージを知った時、胸の奥の悲しみは絶対的な冷酷さを持つ復讐の炎へと変わった。私の素性を知る新社長のハルトや、父の旧友たちと共に、私は決して逃れられない完璧な包囲網を密かに築き上げていく。 そして迎えた運命の役員会。全てを掌握したと信じ、私の前で勝ち誇る黒幕。だが彼はまだ知らない。無力な受付嬢だと思っていた私が、彼を社会的死の淵へと突き落とす致命的な罠を仕掛けていたことを。仮面を脱ぎ捨てた時、強欲な悪魔を地獄の底へと引きずり下ろす、容赦なき反撃が幕を開ける――。因果応報|真相|修羅場3.8万字5 2101 -
完結第21話
母がナイフで砕いた自分の名前
母の七十歳の祝いで、私は家族に尽くし続けた母に自分の人生を取り戻してほしい一心から、ケーキのプレートに書かれた夫の姓を削り落とし、母の旧姓を書き直した。これで母は喜んでくれるはずだった。しかし母は青ざめ、「誰が戻りたいなんて言ったの」と私を睨みつけると、ナイフを掴んで自分の名前を何度も突き刺し粉々に叩き割った。家族全員から責め立てられた私は、母の部屋で底面を無残に削り取られた大量の人形を見つける。怒り|兄弟姉妹|真相|親子関係|修羅場3.1万字5 148