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"妊婦を狙う老人と十一月の凶刃" 第5話

なぜ鳴り返さなかったのか。なぜ包丁をに取って暴れ狂わなかったのか。なぜ、理尽な暴力に対して、それ以の暴力でち向かわず、自分自を殺すという最も卑屈な逃げを選んだのか。

など、何の美徳でもない。沈黙は、ただ悪を増させるだけの餌だ。

涼ののに育った酷な怪物は、母の骸の傍らで産声をげたのだ。

曜の朝、涼は「体調良」を理由に、休暇の申請をメールで送信した。入社以来、病欠など度もしたことのなかった涼からの連絡に、課からは形式な気遣いの返信がすぐに届いた。

午分。

涼は、都産婦科の正面玄関が見渡せる、通りを挟んだ向かいのコインパーキングの物にっていた。のダウンジャケットのポケットに両を突っ込み、く被ったニットのから、鋭い線を病院の自ドアへと向けていた。

。メモにかれていた付の、その刻がづいていた。

吐く息がく濁る。病院のには、きな腹を抱えて夫に付き添われた女性や、さな子供のを引いた母親たちが次々と入りしていた。穏やかで、幸福に満ちた、しい命の気配。

その景のに、異様なが滑り込んできたのは、午分のことだった。

の向こう側、のから、あの老が現れた。

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曜と同じ、汚れたベージュのジャンパー。だが、そのきはらかに常軌を逸していた。腰をく屈め、柱から柱へとを隠すように移しながら、病院の玄関からてくる々を、血ったでじっと見つめている。はジャンパーのポケットのにく突っ込まれ、何かのい角張った物体を握りしめているのが、布の突っ張りから見て取れた。

涼は息を殺し、じっとそのに留まった。

やがて、病院の自ドアがき、の女性がゆっくりと姿を現した。

曜ののにいた、あの妊婦だった。今はフードを被っておらず、肩まで伸びた髪をろで束ねていた。その横顔はやはり痛々しいほど青く、にした母子帳のケースを、胸ので抱きしめるようにして歩いている。

老の体が、獲物を見つけた爬虫類のようにピクンと直した。

老は音もなく歩へ踏みし、女性の背へと忍び寄っていった。その距、わずかメートル。ポケットののが、ゆっくりと引き抜かれようとしていた。のので、鈍いの輝きが瞬、閃いた。

型の、折りたたみ式の果物ナイフだった。

「――おい」

涼の声は、雑踏の喧騒を切り裂くようにして、老の真ろから落とされた。

老が凍りついたようにきを止めた。

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ゆっくりと、信じられないものを見るように首を巡らせる。そこには、曜ののと同じ、の消えた成瀬涼の徹な顔があった。

「な……な、んで……」

老の喉から、掠れた空気が漏れた。

「パスケース、落としましたよ。沼田義男さん」

涼はポケットから黒いパスケースを取りし、老の目のでプラプラと揺らしてみせた。

「千代田台のグリーンハイツ。、都産婦科。親切に全部いてあったから、届けてあげようとって待ってたんです」

老の顔が、屈辱と恐怖で気に変した。握りしめたナイフの刃先が、刻みに震え始める。

「き、貴様……何の真似だ……! 俺をつけ回して、何の得がある! 警察の回し者か!?」

「警察? そんな尚なもんじゃないですよ。言ったでしょう、こっちは誰だっていいんだって」

涼は歩、老にいを詰めた。ナイフの切っ先が涼の腹部を指していたが、涼は瞬きつしなかった。リスク管理の現で、狂乱したクレーマーが刃物を振り回す面など、これまで何度も経験していた。恐怖をじる能そのものが、とっくの昔に麻痺しているのだ。

「あんたがので言ってたこと、ずっと考えてたんですよ。『奇形が産まれる』『楽をするな』。そしてこのメモ。『結、許さない、産ませるな』。……あの妊婦の名、結さんっていうんですね。

あんたの何なんですか?」

「黙れぇ!!」

老がナイフを振りげ、涼の胸元へ突き刺そうと突してきた。

あまりにも稚拙で、力のない刺突だった。

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