"次の駅で降りなさい" 第1話
「帰ったら、あなたの実はなくなるよ」
幹線が速度を落とし始めた、見らぬ老婦が私の腕を掴んだ。
実の最寄り駅まで、あと数分。父の回忌のために帰るだけの、ただの帰省のはずだった。
窓のでは田んぼの緑がゆっくり流れている。隣の席では夫の誠が目を閉じ、ずっと同じ姿勢で眠っていた。
私はスマホで兄からのメッセージを見ていた。
「の段取りは美に任せてあるから」
美は兄嫁だ。周忌のも、私はただくだけだった。準備は兄夫婦がしてくれた。私は京から向かい、をわせ、また帰るだけのだった。
その、腕に力がこもった。
「しだけ、よろしいですか」
振り向くと、代くらいの女性がっていた。髪をくえ、グレーのジャケットを着ている。背筋はまっすぐで、目だけが異様にかった。
「ここではく話せません」
老婦は周囲を度見て、声を落とした。
「あなたのご実のの件です」
胸の奥がざわついた。
「今朝、仮登記がつきました」
「仮登記……?」
産の言葉だということだけは分かった。けれど、なぜ私に。なぜこのがっているのか。
「売買予約の仮登記です。あなたの持ち分も対象になっています」
声がなかった。
老婦は私の腕をさらにく握った。
「期限は以内。今帰ったら、あなたの実はなくなるわ」
広告
内放送が流れ終わり、急に内が静かになった。エアコンのい音だけがに残る。
「次の駅でりなさい。今から調べなければにわない」
私は息をすることも忘れていた。
老婦は続けた。
「売買予約の類には会がいます」
「会?」
私が聞き返すと、老婦は通越しに隣の席を見た。
誠はまだ眠っていた。
「その会が、あなたのご主です」
臓がくねた。
隣から誠の寝息が聞こえる。穏やかな、何もらないの寝息。
いや、何もらなかったのは私のほうだった。
老婦はさな片を私のに置いた。
「と申します。持ち分を共している者です。調べてください。すぐに」
には名、所、話番号がきで記されていた。何度もき直したような、しいインクの文字だった。
幹線がホームに滑り込む。々がちがり、荷物の音がなった。
「待って」
声をしかけたが、何を聞けばいいのか分からなかった。
次の瞬、の波に遮られ、老婦の姿はもう見えなくなっていた。
誠がさく息を吐き、目をけた。
「着いたか?」
私は頷いた。声がなかった。
「どうした? 顔悪いぞ」
「なんでもない」
その言を絞りすのに、全の力を使った。
私は片をバッグの奥へ押し込み、ホームへりた。
のが頬を叩いた。
以内。
その言葉だけが、ので何度も繰り返されていた。
広告
実へ向かうタクシーの、私は窓のを見ていた。
田んぼの向こうに薬局の板が見える。その先に古い郵便局。子供の頃、父に連れられて賀状をしにった所だった。
隣に座る誠は、スマホを見ていた。
普段、内で携帯を触るではない。けれど今は、画面から目をさない。
通音が鳴った。
誠の指が止まる。
画面が瞬だけり、すぐに暗くなった。彼は慌てたようにスマホを伏せた。
そのきが、あまりにも自然だった。
「どうしたの?」
「あ、いや。丈夫」
誠はそう言ったが、表はこわばっていた。眉に皺が寄り、唇がくいている。何かを見てしまったの顔だった。
老婦の言葉が蘇る。
「ご主は会として署名しています」
が信号で止まった。
エンジン音だけが響く。窓のでは、自転に乗ったが横断歩を渡っていた。
誠が再びスマホを持ちげる。
私はそっと画面を覗いた。
そこには送完の通が表示されていた。
――美 30万円。
息が止まった。
美は兄嫁の名だ。送は、私たちが幹線に乗っていただった。つまり誠は、発からこの送を設定していたことになる。
誠は慌てて画面を消した。
「ごめん。見えた」
自分でも驚くほど、声は静だった。
誠は線を落とした。
「て替えだよ」
「て替え?」
「うん。美さんに頼まれて。
固定資産税とか、そういうの」
固定資産税。
私はその言葉を胸ので繰り返した。
広告
おすすめ作品
-
完結第25話
底辺受付嬢を見下す役員たちの誤算
父の会社は、最も信頼していた人間の裏切りによって無惨に食い物にされた。巨額の負債を背負い、絶望の中で病に倒れた父。私はその冷酷な真相を暴くため、ハーバード大の博士号を隠し、ただの「受付嬢」として敵の中枢である星空グループに潜入した。 誰からも見下され、理不尽な侮辱に耐え忍ぶこと3年。息を潜めて集めた証拠が示したのは、あまりにも残酷な真実だった。父を破産に追い込み、私から全てを奪った黒幕の正体は、父が家族のように慕っていた古参役員だったのだ。 「黒幕は役員会の中にいる」――私を守るため、父が命懸けで残してくれた最期のメッセージを知った時、胸の奥の悲しみは絶対的な冷酷さを持つ復讐の炎へと変わった。私の素性を知る新社長のハルトや、父の旧友たちと共に、私は決して逃れられない完璧な包囲網を密かに築き上げていく。 そして迎えた運命の役員会。全てを掌握したと信じ、私の前で勝ち誇る黒幕。だが彼はまだ知らない。無力な受付嬢だと思っていた私が、彼を社会的死の淵へと突き落とす致命的な罠を仕掛けていたことを。仮面を脱ぎ捨てた時、強欲な悪魔を地獄の底へと引きずり下ろす、容赦なき反撃が幕を開ける――。因果応報|真相|修羅場3.8万字5 1809 -
完結第15話
不当解雇された高卒技術者の特許逆転劇
精密機械メーカーの技術者・中村誠は、高卒叩き上げであることを理由に、名門大卒のエリート上司・北川部長から「掃除とオイル交換しかできない無能な雑用係」と見下されていた。ある日、大口顧客向けの製品に二百個超の大量不良が発生。北川は自らの設定ミスを隠蔽し、誠を犯人に仕立て上げて責任を押し付ける。深夜に真相を暴くアクセスログのUSBメモリーを確保した誠だったが、直後に車に撥ねられ全治三ヶ月の重傷を負ってしまう。病室から連絡を入れると、北川は「好都合だ、クビにしておく」と嘲笑し電話を切った。だが誠が病室のベッドから特許庁へ出願した一枚の技術書類と、彼が去って完全沈黙した工場の製造ラインが、欺瞞に満ちた組織に前代未聞の崩壊をもたらす――。職場逆転|人生逆転2.5万字5 430 -
完結第14話
高卒エースを掃除係に落とした無能社長
大手玩具メーカーの営業エース・篠田零司は、高卒叩き上げながら十二年間にわたりトップの成績を維持してきた。だが、恩師である先代の矢吹会長が病で倒れ、新社長に就任した倉島哲也から全社報告会で突如「先月の達成率は三十パーセント、部内最下位のお荷物だ」と虚偽の数字で公開処刑される。強烈な学歴コンプレックスと嫉妬を燃やす倉島は、篠田を社長室の雑用係へと追いやったばかりか、彼が一年かけて心血を注いだ総額百億円の大型独占契約を故意に破談へ追い込む暴挙に出る。しかし、篠田の手元には「確定売上高一億四千二百万円」を証明する売上管理ファイルの原本が存在していた。理不尽の極みの中で静かに退職届を差し出した篠田。だが、現場の異変を察知した車椅子の矢吹会長が立ち上がり、握りつぶされた証拠が暴かれたとき、欺瞞に満ちた社長室に前代未聞の鉄槌が下される――。職場逆転|人生逆転2.9万字5 204 -
完結第21話
母がナイフで砕いた自分の名前
母の七十歳の祝いで、私は家族に尽くし続けた母に自分の人生を取り戻してほしい一心から、ケーキのプレートに書かれた夫の姓を削り落とし、母の旧姓を書き直した。これで母は喜んでくれるはずだった。しかし母は青ざめ、「誰が戻りたいなんて言ったの」と私を睨みつけると、ナイフを掴んで自分の名前を何度も突き刺し粉々に叩き割った。家族全員から責め立てられた私は、母の部屋で底面を無残に削り取られた大量の人形を見つける。怒り|兄弟姉妹|真相|親子関係|修羅場3.1万字5 137 -
完結第20話
教室の最後列に座る元教員
定年退職した元教員の私は、一度も教えたことのない男子生徒の保護者会に、身元を偽って六年間通い続けていた。教室の最後列から見つめる先には、油まみれの作業着を着た父親が座っている。受付簿の不審な記録に気づいた校長から昇降口で問い詰められた帰り道、桜が散る坂道でその父親が私の前に立ちふさがった。二十四年前の元教え子だったその男は、振り返りもせず、私の背中に向けて「あの席、あと何年座るつもりですか」と低く告げ怒り|真実|親子関係|修羅場3.1万字5 122 -
完結第21話
優しい教室で震える息子
息子が突然学校に行けなくなり、担任は「いじめなどなくクラス全員に愛されている」と胸を張った。不審に思った私が息子のランドセルを調べると、底板の裏から三十七枚の給食費受領書が出てくる。我が家は困窮などしていないのに、三ヶ月間、生徒全員が日替わりで息子の昼食代を立て替えていた。私が学校へ確かめに行こうとした瞬間、息子は「言わないで」と叫んで床に泣き崩れ、その紙片を必死に胸へ抱え込んだ。怒り|裡の顔|親子関係|金銭問題3.2万字5 6057 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 216 -
完結第24話
妻の手術翌朝、七通の解約通知
妻が胆嚢ポリープの手術で入院した日、私は仕事を優先し「自分で処理しろ」と見舞いを断った。だが翌朝、私の携帯にマンションの駐車場、クレジットカード、父のデイサービスを含む七通の解約通知が立て続けに届く。カードは店頭で弾かれ、ビルのゲート前で立ち往生した私は、妻の報復を確信して病室のドアを乱暴に開けた。点滴に繋がれた妻は、今すぐ元に戻せと詰め寄る私の目の前で、スマートフォンの画面を静かに伏せた。怒り|夫婦|介護|修羅場3.7万字5 193 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176