"千船の祝い膳" 第1話
「その古い着物で入らないで。写真に残るから」
孫のおい初めの、嫁の絵里奈さんは、宴会の扉の向こうでそう言いました。
私は扉のでを止めました。には古い布の袋を提げています。には、さな祝い箸を入れた箱と、くあせた1枚の布巾が入っていました。
扉のには、息子の真司も、絵里奈さんの両親も、そして私の初孫もいました。けれど私は、宴会のの廊に1でっていました。
ホテルの廊は静かでした。壁には淡い照が落ち、くから器の触れる音と、控えめな音楽が聞こえてきます。私は袋の持ちを握り直しました。指先に布の跡がつくほど、く握っていたことに気づきました。
その袋のから、い布巾がしだけ覗いていました。私は慌ててしまおうとしましたが、元が震え、布巾はするりとに落ちました。
柔らかく広がった布の隅に、くなった刺繍が見えました。
「千」
それは、私がもう捨てたとっていた昔の名でした。
かがんで拾おうとした、そのです。廊の向こうから、い調理を着た男性が歩いてきました。背筋の伸びた、60代ほどの男性でした。ろには若い料理たちもいます。
男性は布巾を見ると、を止めました。そしてゆっくりと両で拾いげ、刺繍を見つめました。
次の瞬、彼は私のに膝をつきました。
広告
「千先……なぜ先が、扉のに」
その声を聞いた瞬、宴会の扉がきました。
から顔をした絵里奈さんの母・美佐子さんが、凍りついたように固まりました。続いて絵里奈さんも顔をし、私の元に膝をつく総料理を見て、みるみる顔を失っていきました。
私は何も言えませんでした。ただ、に落ちた布巾と、目のに膝をつくそのを見つめていました。
彼の名は、榊原総。
若い頃、私の厨にいた料理でした。
私の名は原千代乃、73歳です。
京都の端にあるさなマンションで、1暮らしをしています。夫をくして、もう7になります。
部は広くありません。台所も古く、換気扇を回すとしい音がします。それでも朝、窓をけると、くの寺から鐘の音が聞こえます。
その音を聞きながら、私はさな鍋でご飯を炊きます。1分の噌汁、切れの焼き魚、季節の漬物をし。それが今の私の暮らしです。
若いから見れば、で古臭い活かもしれません。でも、私にはそれで分でした。
私は若い頃から料理の世界にいました。
料理といっても、テレビにるような華やかな仕事ではありません。私がく向きってきたのは、本料理のでも、祝いの席にす料理でした。
おい初め、、結納、寿の祝い、法のの膳。
広告
がの節目に囲む卓です。
祝い膳は、ただ豪華であればいいものではありません。器の向き、のなり、鯛の焼き目、赤飯の蒸し加減、吸い物の温度。その1つ1つに、そこにいるのを乱さないためのがあります。
私はその世界で、く働いてきました。
料理名は、千。
昔、師匠につけてもらった名です。
「のをすように、を渡す料理を作りなさい」
そう言われたのことを、今でも覚えています。
けれど今の私は、ただの老いた母です。
髪をろでまとめ、古い着物を事に着て、スマートフォンの操作にもがかかる。歩くのも、話すのも、し遅くなりました。
1息子の真司は44歳です。阪の品会社で管理職をしています。真面目で、昔から争いが苦な子でした。誰かがく言うと、すぐ黙ってしまうところがあります。
真司がさかった頃、私は厨にいるがく、に帰るのはいつも遅くなりました。運会のも、仕込みで遅れました。
あの子がり終えた、息を切らして庭に着いたことがあります。
真司は何も言いませんでした。ただ、さな赤い旗をぎゅっと握っていました。
その顔を、私は忘れていません。
真司が結婚した、私はに決めました。
もう息子の庭にをさない。嫁に嫌われないようにする。必なだけ、静かにを添える。
嫁の絵里奈さんは36歳です。初めて会った、爪の先まで美しくえ、いベージュのワンピースを着ていました。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
十字の紙片と売られた生家
「母さん、老人ホームに入れ。この家も売る」息子夫婦はカナダ移住を前に、相場の半値以下の査定書と山奥の隔離施設のパンフレットを突きつけてきた。共働きで多忙な彼らに代わり、十年間孫娘を育て上げ、遺産から数百万円を用立ててきた私への仕打ちがこれだった。絶望に沈む私の手に、高校生の孫娘が震えながら押し込んだのは、固く折られた「十文字のチラシの紙片」。「明日の朝までに、実印と通帳は絶対に渡さないで」。深夜二時、一人で開いたその紙には、全てを覆す戦慄の計画が記されていた。私は仏壇の隠し金庫に手を伸ばし――。祖父母と孫|介護2.4万字5 426 -
完結第25話
底辺受付嬢を見下す役員たちの誤算
父の会社は、最も信頼していた人間の裏切りによって無惨に食い物にされた。巨額の負債を背負い、絶望の中で病に倒れた父。私はその冷酷な真相を暴くため、ハーバード大の博士号を隠し、ただの「受付嬢」として敵の中枢である星空グループに潜入した。 誰からも見下され、理不尽な侮辱に耐え忍ぶこと3年。息を潜めて集めた証拠が示したのは、あまりにも残酷な真実だった。父を破産に追い込み、私から全てを奪った黒幕の正体は、父が家族のように慕っていた古参役員だったのだ。 「黒幕は役員会の中にいる」――私を守るため、父が命懸けで残してくれた最期のメッセージを知った時、胸の奥の悲しみは絶対的な冷酷さを持つ復讐の炎へと変わった。私の素性を知る新社長のハルトや、父の旧友たちと共に、私は決して逃れられない完璧な包囲網を密かに築き上げていく。 そして迎えた運命の役員会。全てを掌握したと信じ、私の前で勝ち誇る黒幕。だが彼はまだ知らない。無力な受付嬢だと思っていた私が、彼を社会的死の淵へと突き落とす致命的な罠を仕掛けていたことを。仮面を脱ぎ捨てた時、強欲な悪魔を地獄の底へと引きずり下ろす、容赦なき反撃が幕を開ける――。因果応報|真相|修羅場3.8万字5 1809 -
完結第15話
不当解雇された高卒技術者の特許逆転劇
精密機械メーカーの技術者・中村誠は、高卒叩き上げであることを理由に、名門大卒のエリート上司・北川部長から「掃除とオイル交換しかできない無能な雑用係」と見下されていた。ある日、大口顧客向けの製品に二百個超の大量不良が発生。北川は自らの設定ミスを隠蔽し、誠を犯人に仕立て上げて責任を押し付ける。深夜に真相を暴くアクセスログのUSBメモリーを確保した誠だったが、直後に車に撥ねられ全治三ヶ月の重傷を負ってしまう。病室から連絡を入れると、北川は「好都合だ、クビにしておく」と嘲笑し電話を切った。だが誠が病室のベッドから特許庁へ出願した一枚の技術書類と、彼が去って完全沈黙した工場の製造ラインが、欺瞞に満ちた組織に前代未聞の崩壊をもたらす――。職場逆転|人生逆転2.5万字5 430 -
完結第14話
高卒エースを掃除係に落とした無能社長
大手玩具メーカーの営業エース・篠田零司は、高卒叩き上げながら十二年間にわたりトップの成績を維持してきた。だが、恩師である先代の矢吹会長が病で倒れ、新社長に就任した倉島哲也から全社報告会で突如「先月の達成率は三十パーセント、部内最下位のお荷物だ」と虚偽の数字で公開処刑される。強烈な学歴コンプレックスと嫉妬を燃やす倉島は、篠田を社長室の雑用係へと追いやったばかりか、彼が一年かけて心血を注いだ総額百億円の大型独占契約を故意に破談へ追い込む暴挙に出る。しかし、篠田の手元には「確定売上高一億四千二百万円」を証明する売上管理ファイルの原本が存在していた。理不尽の極みの中で静かに退職届を差し出した篠田。だが、現場の異変を察知した車椅子の矢吹会長が立ち上がり、握りつぶされた証拠が暴かれたとき、欺瞞に満ちた社長室に前代未聞の鉄槌が下される――。職場逆転|人生逆転2.9万字5 208 -
完結第14話
偽りの血液型
花屋で働くさやかは、名門病院の跡取り・谷本勇吾と結婚した。しかし命懸けの出産直後、病室に乗り込んできた元女優の義母・早苗から「この尻軽女!」と胸倉を掴まれる。新生児室の娘の髪は、純日本人の夫婦からはあり得ない見事な「金髪」だった。 さらに夫の元恋人である看護師から「子の血液型はA型。B型の夫とO型の妻から生まれる確率は0%」と宣告され、さやかは「托卵妻」の濡れ衣を着せられて無一文で追い出されてしまう。 信じてくれない夫と冷酷な義父母に絶望し、一人娘の凛を育てるさやか。そんな彼女を密かに支え続けたのは、義母から疎まれていた義弟の慎司だった。 12年後、美しく成長した娘の前に再び現れた元義家族。その裏に隠されていた、改ざんされた検査結果と、名家を揺るがす戦慄の「DNA鑑定書」とは——。祖父母と孫|修羅場2.1万字5 328 -
完結第11話
夫の毒膳と孫の告発〜元科捜研妻の科学鑑定〜
元科学捜査研究所の分析官だった岩田礼子(五十八歳)は、交通事故で息子夫婦を失い、遺された五歳の孫・陽太を夫の国彦と共に引き取って育てていた。 しかし息子の死後、礼子は原因不明の酷い目眩や全身の脱力感に苛まれるようになる。献身的に看病し、料理教室へ通って手料理やサプリメントを振る舞う「理想の夫」国彦。だが、体調は悪化の一途を辿り、ついに出張前日に夫が作り置いた筑前煮を口にした直後、礼子は急性中毒で意識不明に陥ってしまう。 九死に一生を得て帰宅した夕暮れ、テレビのサスペンスドラマで睡眠薬をすり潰す犯人を見た陽太が「おじいちゃんのと同じだ」と無邪気に叫んだ。古巣の科捜研に持ち込んだ筑前煮とサプリメントから検出されたのは、致死量寸前の睡眠薬――優しい夫の仮面の裏に隠された、身の毛もよだつ殺意と陰謀とは。祖父母と孫|夫婦1.6万字5 265 -
完結第23話
義母が突然、結婚指輪をくれた
夫が亡くなった日、義母は「もう家族じゃない」と私と娘を雨の中に追い出した。それから二年、一度の連絡もなかった義母が娘の小学校入学を控えた夕暮れ、四十年間外さなかった結婚指輪を私の指に無理やり嵌めて頭を下げた。翌日、親族が集まる祝いの席で和解を受け入れようとした私の前で、義母は冷たい笑みを浮かべ、夫が生前に娘の氏の変更書類を用意していたのではないかと問い詰めてきた。私の手の中で箸が止まった。裡切られた|祖父母と孫|嫁姑|親子関係|修羅場3.5万字5 127 -
完結第25話
祖父が私に遺した最後の拒否権
亡くなった祖父の果園を三千二百万円で売却するため、東京で働く私は十年ぶりに実家へ呼び戻された。生活苦に喘ぐ父と妹の結婚資金のため、名義を持つ父は契約を急いでいたが、司法書士が出したのは「長孫である私の書面同意がなければ売却は無効」という祖父の遺言だった。早く終わらせようとペンを握った私は、ふと買い手企業がここを何にするつもりなのか尋ねた。山を削り大型トラックの夜間中継所にすると聞かされた瞬間、私は手元のペンを静かに机へと置いた。祖父母と孫|相続|親子関係|金銭問題3.7万字5 111 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 216 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176