"皿洗いと呼ばれた名料理人" 第1話
「皿洗いは引っ込んでろ。おみたいな寄りが邪魔をするな」
パリの級ホテルの厨に、たい声が響いた。
声を放ったのは、料理のジャン・ボナールだった。40代半のフランスシェフで、パリでも名をられた料理である。完璧主義者として評価される方で、厨では酷ともえる態度を見せることがあった。
その言葉を向けられたのは、63歳の本女性、冴子だった。
彼女は瞬だけを止めたが、すぐにくをげた。
「すみません」
声はさかった。反論もりもなかった。冴子は再び洗いに向き直り、積みげられた皿を1枚ずつ洗い始めた。
冴子がこの厨で働き始めてから、すでに3ヶが経っていた。
毎朝6、彼女は誰よりもく厨に現れた。皿洗い、野菜の処理、掃除、鍋磨き。与えられた仕事は、どれも華やかなものではなかった。
「おい、冴子。こっちの鍋も洗っておけ」
ボナールがい鍋を差しした。
「はい。承いたしました」
冴子は両で鍋を受け取った。鍋には、朝から仕込まれていた煮込み料理の焦げがこびりついていた。
「まったく、使えないやつだ」
ボナールは吐き捨てるように言い、自分の持ちへ戻っていった。
その様子を見ていた見習いのマリーが、若いシェフに声で話しかけた。
「あの、料理をしないの? いつも皿洗いと掃除ばかりで、1度も料理しているところを見たことがないわ」
広告
「雑用係だって聞いたよ。本だから寿司でも作れるとって採用されたんじゃない?」
2はさく笑い、冴子の方をちらりと見た。
冴子は何も聞こえていないかのように、鍋を磨き続けていた。そののきには無駄がなく、まるで切な器を扱うような丁寧さがあった。
昼休みになると、スタッフたちは休憩やのカフェへ向かった。
冴子だけは厨の片隅に座り、さなおにぎりを静かにべていた。その元には、さな布包みが置かれている。
彼女は包みをほどき、1本の包丁を取りした。刃は美しく、柄は使い込まれてに馴染んだ艶を帯びていた。
冴子が丁寧に入れを始めたその、マリーの声がした。
「どうして包丁なんて持っているの?」
冴子はを止め、包丁をそっと布で包み直した。
「料理にとって、包丁は魂そのものです」
その声には、これまで聞いたことのない響きがあった。静かでありながら、揺るぎない信があった。
「料理? あなたが?」
マリーは驚いたように眉をげ、すぐにで笑った。
「皿洗いが料理だなんて、面いことを言うのね」
その瞬、冴子の瞳に瞬だけいしみが宿った。だが、それはすぐに消えた。
「そうですね。失礼いたしました」
冴子は穏やかに答え、おにぎりの残りを片付けると、再び洗いへ戻っていった。
広告
午の厨は、夕の準備で慌ただしくなった。
ボナールの指示の、若いシェフたちがせわしなくき回る。鍋の音、包丁の音、焼ける肉のり。すべてが級ホテルの厨らしい緊張に満ちていた。
そので、冴子だけは変わらぬ速さで雑用をこなしていた。
「冴子、野菜くずを捨ててこい」
「が汚れている。すぐに拭け」
「皿がりない。洗いへ急げ」
次々と指示がんできたが、冴子は1つずつ丁寧に返事をした。
「はい」
「承いたしました」
文句を言うことも、疲れた顔を見せることもなかった。
そんなある曜の朝、厨にいつもとは違う緊張が漂っていた。
ボナールがスタッフ全員を集め、い声で言った。
「みんな、聞いてくれ。今週の曜、このホテルで国際な事会が催される」
若いシェフたちの表が引き締まった。
「参加者は各国の文化臣や交官たちだ。々の腕の見せどころだぞ」
厨に期待と緊張がった。
このような規模でな事会は、シェフたちにとってきな会だった。成功すれば、ホテルの評価だけでなく、自分たちの名も広がる。
「メニューは当然、々の得とするフランス料理だ。完璧な仕がりを期待している」
ボナールの言葉に、全員がうなずいた。
担当が次々と決まっていく。
「俺は菜を担当したいです」
「私はスープを」
「魚料理をやらせてください」
冴子はその様子を、洗いのそばから静かに見つめていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第15話
不当解雇された高卒技術者の特許逆転劇
精密機械メーカーの技術者・中村誠は、高卒叩き上げであることを理由に、名門大卒のエリート上司・北川部長から「掃除とオイル交換しかできない無能な雑用係」と見下されていた。ある日、大口顧客向けの製品に二百個超の大量不良が発生。北川は自らの設定ミスを隠蔽し、誠を犯人に仕立て上げて責任を押し付ける。深夜に真相を暴くアクセスログのUSBメモリーを確保した誠だったが、直後に車に撥ねられ全治三ヶ月の重傷を負ってしまう。病室から連絡を入れると、北川は「好都合だ、クビにしておく」と嘲笑し電話を切った。だが誠が病室のベッドから特許庁へ出願した一枚の技術書類と、彼が去って完全沈黙した工場の製造ラインが、欺瞞に満ちた組織に前代未聞の崩壊をもたらす――。職場逆転|人生逆転2.5万字5 430 -
完結第14話
高卒エースを掃除係に落とした無能社長
大手玩具メーカーの営業エース・篠田零司は、高卒叩き上げながら十二年間にわたりトップの成績を維持してきた。だが、恩師である先代の矢吹会長が病で倒れ、新社長に就任した倉島哲也から全社報告会で突如「先月の達成率は三十パーセント、部内最下位のお荷物だ」と虚偽の数字で公開処刑される。強烈な学歴コンプレックスと嫉妬を燃やす倉島は、篠田を社長室の雑用係へと追いやったばかりか、彼が一年かけて心血を注いだ総額百億円の大型独占契約を故意に破談へ追い込む暴挙に出る。しかし、篠田の手元には「確定売上高一億四千二百万円」を証明する売上管理ファイルの原本が存在していた。理不尽の極みの中で静かに退職届を差し出した篠田。だが、現場の異変を察知した車椅子の矢吹会長が立ち上がり、握りつぶされた証拠が暴かれたとき、欺瞞に満ちた社長室に前代未聞の鉄槌が下される――。職場逆転|人生逆転2.9万字5 208 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 216 -
完結第14話
年商一兆円の父にワインをかけた婚約者
創業家の御曹司との顔合わせ当日。ボロ車で駆けつけた私の父を見た義母は、「貧乏人の娘が」と父の頭から赤ワインを浴びせかけた。婚約者も冷笑し、父を詐欺師呼ばわりしてロビーで土下座を迫る始末。 だが、父は一言も取り乱さず、静かにワインを拭った。 「この縁談はなかったことに」 指輪を投げ返し、父の向かった先は日本中が恐れる巨大財閥の最上階。傲慢な親子が信じていた“金と権力のルール”で、静かな断罪劇が幕を開ける。因果応報|人生逆転|金銭問題|修羅場2.1万字5 129 -
完結第13話
二十七年目の嘘
58歳で急死した夫の遺品を整理していた美智子は、引き出しの奥から27年前の「採用内定通知書」を見つける。当時不合格だと思い込んでいた東京の出版社からのものだった。封筒の裏には夫の筆跡で「辞退連絡済」。夫はなぜ私の人生を勝手に奪ったのか。さらに、夫の出世作となった伝説の住宅企画が、かつて自分が書いた企画ノートそのものだったことを知る。奪われた名前と人生を取り戻すため、妻が下した決断とは。人生逆転|夫婦|真実|第二の人生|親子関係2.0万字5 57