"母を捨てた凍夜" 第3話
妻の顔をうかがうばかりで、母親を守ろうとはしなかった。
はる子は、またあの々が戻ってきたような気がした。
姑に仕えていたあの苦しい々。
今度は嫁に気を使いながらきていかなければならない。
それでも、はる子はした。
文句を言えば、息子夫婦に迷惑がかかる。
孫たちに会えなくなるかもしれない。
そううと、何も言えなかった。
朝く起きて掃除をし、事の支度を伝い、孫の世話をする。幸子はそれを当たりのような顔で受け入れた。
「お義母さん、洗濯物もお願いしますね」
「はい」
はる子はいつものように頷いた。
の奥にある寂しさを、誰にも見せないようにして。
1994頃から、はる子の様子がしずつ変わり始めた。
物忘れが増えた。
同じことを何度も聞く。
しまったはずの財布を探し、を止めたかどうかを何度も確認する。
最初は、のせいだとわれた。
しかし、ある、鍋をにかけたまま忘れてしまったことがあった。台所に焦げた匂いが広がり、幸子が慌ててを止めた。
「お義母さん、危ないじゃないですか」
幸子の声は鋭かった。
はる子は台所の入りにち、怯えたようにを握りしめた。
「ごめんなさい。忘れてしまって」
病院で診てもらうと、認症の初期だと言われた。
そのから、幸子の態度はさらにたくなった。
広告
「お義母さん、もう私たちでは面倒を見きれません」
幸子は武志に言った。
武志は困った顔をしたが、妻に逆らうことはできなかった。
「でも、母さんはまだ……」
「まだ、じゃありません。を消し忘れるんですよ。子どもたちに何かあったらどうするんですか」
幸子の言葉に、武志はを閉じた。
19969、幸子ははる子を介護施設に入れることを決めた。
武志は妻の決定に従った。
その話を聞いた由紀子は、すぐに実へ駆けつけた。
由紀子は貧しいに嫁ぎ、3の子どもを育てながらパートで働いていた。夫は建設現の雇い労働者で、活は決して楽ではなかった。
それでも、母を施設へ入れることには反対した。
「お兄ちゃん、お母さんを施設になんて」
由紀子の声は震えていた。
武志は線をそらした。
「由紀子、おに何が分かる。毎緒に暮らしているわけじゃないだろう」
幸子がたい声で続けた。
「お義姉さんでも、お母さんはもう危ないんです。さっきもをつけっぱなしにして、危なくて仕方ないんですよ」
由紀子は何も言い返せなかった。
認症がんでいるのは事実だった。
それでも、母を施設に入れることが正しいとはえなかった。
「私がお母さんを引き取ります」
由紀子は咄嗟にそう言った。
幸子はで笑った。
「あなたので? あの狭いアパートで、子どもが3もいるのに? 無理ですよ。
広告
現実を見てください」
由紀子は唇を噛みしめた。
確かに、自分ので母を引き取るのは現実ではなかった。子どもたちの部もりない。夫が賛成するかも分からない。活費にも余裕はない。
それでも、諦めたくなかった。
「お母さん……ごめんなさい」
由紀子はので謝った。
はる子は、娘の様子を見て、何が起きているのか分かっているようだった。認症の症状があっても、娘が苦しんでいることだけは伝わっていた。
はる子は静かに微笑んだ。
「由紀子、いいのよ。お母さんは丈夫だから」
その優しい声が、由紀子の胸を締めつけた。
199610、はる子は兵庫県部のにあるさな介護施設へ入所した。
施設の名は吹荘。
古い本を改装した、定員20名ほどのさな施設だった。周りはに囲まれ、最寄りのバスまで3km、町の部まではで30分かかる静かな所だった。
入所の、幸子と武志は、はる子をで施設まで送った。
玄関では施設の吉田健が迎えた。
58歳。穏やかな笑顔を浮かべた男性だった。
「さん、ようこそ。ここでゆっくり過ごしてくださいね」
吉田ははる子のを取り、優しく声をかけた。
はる子はそうに周囲を見回した。
「ここはどこ?」
「お母さん、ここがこれから暮らす所よ。いいところでしょう」
幸子はるい声で言った。
しかし、その目は笑っていなかった。
続きを済ませると、幸子と武志はすぐに帰ってしまった。
広告
おすすめ作品
-
完結第16話
十字の紙片と売られた生家
「母さん、老人ホームに入れ。この家も売る」息子夫婦はカナダ移住を前に、相場の半値以下の査定書と山奥の隔離施設のパンフレットを突きつけてきた。共働きで多忙な彼らに代わり、十年間孫娘を育て上げ、遺産から数百万円を用立ててきた私への仕打ちがこれだった。絶望に沈む私の手に、高校生の孫娘が震えながら押し込んだのは、固く折られた「十文字のチラシの紙片」。「明日の朝までに、実印と通帳は絶対に渡さないで」。深夜二時、一人で開いたその紙には、全てを覆す戦慄の計画が記されていた。私は仏壇の隠し金庫に手を伸ばし――。祖父母と孫|介護2.4万字5 426 -
完結第11話
九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯
午前九時三十四分、地下鉄の車内で若い男が突如狂乱し、中年客の顔面を骨が軋むほど殴打した。床一面に飛び散る鮮血。だが、隣に座る同じ社章をつけた上司は、ただ口をあわあわと震わせ「腰を抜かして」座り込むだけだった。乗客たちと男を取り押さえ、駅員にすべてを通報した俺。しかし翌日、警察の発表も新聞の三面記事も、この凄惨な事件を「最初から存在しなかった」かのように完全に黙殺していた。なぜあの凄惨な暴力は一行も報道されず、駅の防犯カメラ映像すら消去されたのか。数年後、俺はある大手企業の役員名簿の中に、あの朝、冷たいホームの柱にすがってガタガタと震えていた「あの上司」の顔写真を見つけ、息を呑んだ――。ミステリー|真実1.6万字5 101 -
完結第24話
目覚めた部下にクビを問われた
地方旅館の火災で客を救い出し重傷を負った部下が目を覚ました。だが彼女の記憶は直近の二年分が抜け落ち、着任初日の私が冷酷に解雇を迫った日のまま止まっていた。会社は避難扉が開かなかった責任を彼女の記憶喪失に乗じて背負わせようと、退職金の支払いを口実に過失を認める書類への署名を病室で迫る。何も思い出せない部下は震える手でペンを握り、かつて自分を追い詰めたはずの私を怯えた目で見つめた。職場逆転|真実|裡の顔|修羅場3.7万字5 691 -
完結第21話
母を遠ざける姉の嘘
長野で一人暮らす母の介護を一手に担う姉から「母の体調が悪化するから来るな」と言われ、私は五年間帰省を控え、毎月五万円の仕送りを続けていた。だがある夜、母から五年ぶりに直接電話が入る。「まだ怒ってるの。あんたが私の顔も見たくないと言っていたと姉から聞いた」と母は怯えていた。直後に受話器を奪った姉は「母の被害妄想だ」と言い放つ。不審に思った私は姉に告げず始発の新幹線に乗り、五年ぶりに実家の引き戸を開けた。兄弟姉妹|裡の顔|親子関係|介護3.2万字5 166 -
完結第20話
教室の最後列に座る元教員
定年退職した元教員の私は、一度も教えたことのない男子生徒の保護者会に、身元を偽って六年間通い続けていた。教室の最後列から見つめる先には、油まみれの作業着を着た父親が座っている。受付簿の不審な記録に気づいた校長から昇降口で問い詰められた帰り道、桜が散る坂道でその父親が私の前に立ちふさがった。二十四年前の元教え子だったその男は、振り返りもせず、私の背中に向けて「あの席、あと何年座るつもりですか」と低く告げ怒り|真実|親子関係|修羅場3.1万字5 122 -
完結第20話
祖母は十二年年賀状を書いてない
八十歳を迎えた祖母のため、私はいとこたちと過去十二年分の年賀状を集めて記念のアルバムを作った。毎年元旦に届く「元気に暮らしています、トマトがたくさん実りました」という三行は、遠方で暮らす私たちが実家の無事を疑わずに済む確かな証拠だった。だが親戚一同が集まる祝宴の席でアルバムを開いた瞬間、祖母は整った文字を見つめ、十二年間一度も年賀状など書いていないと言い放った。親族の視線が一斉に、実家の近くで暮らす叔母へと向かう。孤獨|親子関係|介護|認知症3.0万字5 98 -
完結第24話
妻の手術翌朝、七通の解約通知
妻が胆嚢ポリープの手術で入院した日、私は仕事を優先し「自分で処理しろ」と見舞いを断った。だが翌朝、私の携帯にマンションの駐車場、クレジットカード、父のデイサービスを含む七通の解約通知が立て続けに届く。カードは店頭で弾かれ、ビルのゲート前で立ち往生した私は、妻の報復を確信して病室のドアを乱暴に開けた。点滴に繋がれた妻は、今すぐ元に戻せと詰め寄る私の目の前で、スマートフォンの画面を静かに伏せた。怒り|夫婦|介護|修羅場3.7万字5 193 -
完結第23話
十八年ぶりの切符「次は三人で来い」
「二度と敷居を跨ぐな」――十八年前、父・源蔵の激しい怒声を背に村を飛び出した美雪。母の葬儀すら拒絶し、東京で夫の高一、息子の蒼太と平穏な家庭を築きながらも、心の奥に深い罪悪感を抱え続けていた。 ある秋の日、頑固一徹だった父が倒れたとの報せが届く。恐る恐る帰郷した美雪を迎えたのは、小さく老いさらばえた父の姿だった。互いに素直になれぬまま病室で交わしたわずかな言葉。だが、生家から持ち帰らされた重い桐箱と古いボストンバッグを開けた瞬間、美雪の息は止まる。 そこには、出金記録ゼロのまま膨れ上がった美雪名義の通帳と、十三年前の日付が記された「高一君へ」という父の手紙が眠っていた。父が十八年間隠し通してきた、想像を絶する真実とは――。真実|修羅場3.5万字5 1026 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176