"湯殿床下の女将日記" 第2話
「女将さん!」
何度呼んでも、返事はなかった。
声はのへ吸い込まれ、戻ってくるのは川の流れる音だけだった。
午になり、ようやくがれ始めた頃。
久子は坂のにある駐所へ向かった。
そこにいたのは、このを見守ってきた巡査、田だった。
50代半ば。
温泉の民なら誰もがっている物だった。
どこのに誰がんでいるか。
どの旅館にどんな歴史があるか。
こののことなら、ほとんど何でもっている男だった。
久子から話を聞いた瞬、田の表が変わった。
「女将さんが……黙って宿をるはずがない」
い声でそう呟いた。
このを見てきた経験が、ただ事ではないと告げていた。
田はすぐに糸へ向かった。
旅館のを確認する。
沢子の部。
帳。
玄関。
どこを見ても、自然なほど綺麗だった。
売は残っている。
財布もある。
争った跡もない。
まるで、ほんのし裏の川まで掛けただけのようだった。
なのに、沢子だけが消えていた。
田はそののうちに警察へ連絡した。
やがて警察署から刑事たちが到着し、捜索が始まった。
事件なのか。
事故なのか。
それとも、自ら姿を消したのか。
警察はあらゆる能性を考えた。
川沿いを調べた。
を探した。
隣民にも聞き込みをった。
消防団も協力し、広範囲の捜索が続いた。
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しかし、何つ見つからなかった。
の切れ端も。
持ち物も。
跡も。
沢子は、まるで朝のへ溶けてしまったかのように、突然この温泉から消えた。
田は何度も糸の玄関にった。
以なら、ここから女将の駄の音が聞こえていた。
客の笑い声が響いていた。
しかし今は、静寂だけが残っていた。
「沢子さん……あんた、体どこへっちまったんだ」
の朝に始まった女将の失踪。
この、誰もらなかった。
この事件が6ものいを越え、やがて1の老の告によって、全く違う真実へたどり着くことを。
そして、その真実が、事件ではなく――
1の母親がが子を守るために選んだ、しくもい決断だったことを。
鍛原沢子が糸から姿を消してから、半が過ぎた。
季節は完全にへ向かい、形のにはたいが吹き始めていた。
温泉では朝になると川からい湯気がちり、以と変わらない景が広がっていた。
しかし、糸だけは違っていた。
以なら朝くから従業員たちの声が響き、玄関には宿泊客を迎える準備の音がしていた。
だが今は、静まり返っていた。
女将を失った旅館は、もう以のような営業を続けることができなかった。
沢子がいなくなったことで、宿のを失ったからだった。
糸はい歴史を持つ旅館だった。
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だが、その歴史を支えていたのは建物ではない。
そこにつだった。
そして、そのにいたのが沢子だった。
警察の捜査は続いていた。
担当した刑事の1に、塚という男がいた。
当30代半ば。
まだ若と呼ばれる齢だったが、彼にはの言葉の裏にあるものを読み取る力があった。
声で問い詰めることはしない。
相が話し始めるまで、じっと待つ。
その姿勢から、周囲からは「聞く刑事」と呼ばれていた。
塚が最初に調べたのは、沢子自のだった。
なぜ彼女は消えたのか。
何か悩みを抱えていたのか。
誰かに狙われる理由があったのか。
調べをめるで、いくつかの事実が浮かびがった。
沢子の夫、鍛原総郎は数に病気でくなっていた。
まだ50歳にも届かない若さだった。
発見されたには病状がかなりんでおり、治療のも及ばなかったという。
総郎は温泉でも評判の良い物だった。
旅館組の世話役を務め、困っている宿を助けるような柄だった。
その夫をくした、沢子は1で糸を守ってきた。
しかし、彼女にはもう1つきな配があった。
息子のだった。
名は鍛原彦。
京の学を卒業した、そのまま都会で暮らしていた。
若い頃から旅館を継ぐことを嫌がっていたという。
父親がくなったには度帰ってきた。
だが、それ以はほとんど元に戻らなくなった。
盆や正にも顔をさないことが増えていた。
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