"熱海失踪、2時12分のポケベル" 第2話
駄を鳴らしながら向かったのは、くにあるさな居酒だった。
引き戸をけると、醤油と汁の匂いが広がった。の奥からは客たちの笑い声が聞こえ、の肌寒さとは対照に、内はの気で温かかった。
3はテーブル席へ座り、おでんと本酒を注文した。
その晩、美緒は何度も声をげて笑った。
就職活の失敗を忘れたわけではない。それでも温泉に浸かり、姉夫婦と卓を囲んでいるだけは、く沈んでいた気持ちを横へ置くことができたのだろう。
健は2の話を聞きながら静かに相槌を打ち、空になった杯へ酒を注いでいた。
由はそんな夫の姿を見て、このと結婚して良かったとった。
そのにはまだらなかった。
自分のすぐ隣で穏やかに笑っている男が、3のを根底から壊す計画を胸の奥に隠していたことを。
夜9頃になると、由が急に気分の悪さを訴えた。
温泉にく浸かりすぎたせいなのか、旅から溜まっていた疲れのせいなのか、胸の辺りがむかむかすると言った。
「先に戻って横になってくる」
由がちがると、健は配そうに妻の背へを添えた。
「無理しない方がいい。先に部で休んでおいで」
「でも美緒は?」
「俺が緒にいるよ。コンビニに寄って、たいみ物でも買ってから戻るから」
広告
由は妹を見た。
「美緒、ごめんね」
「丈夫だよ。お姉ちゃんこそく休んで」
そう言って、美緒は笑った。
由は1で旅館へ戻った。夜に浴の裾を揺らしながらざかる妹へ、途で1度だけ振り返ってを振った。
それが、由がきている妹を見た最の瞬になった。
健と美緒は、そのコンビニへち寄ったとされている。員は男女2がペットボトル料と菓子を買ったことを覚えていたが、正確なまでは記憶していなかった。
「9台だったか、10を過ぎていたか……そこまでは覚えていません」
の捜査で員はそう証言した。
当、旅館の廊に防犯カメラはなかった。フロントの従業員も、夜10を過ぎると奥の事務へ入ることがく、誰が何に入りしたのかを確認できる記録は残っていなかった。
そのため、コンビニをた、健と美緒がどこへ向かったのかは、い分からないままとなった。
古い旅館の暗い廊。
軋む。
並んだ客の扉。
その夜、そこで何が起きていたのかを見た者はいなかった。
翌朝、の空は鉛のに覆われていた。
由は目を覚ますと、支度をえて隣の部へ向かった。朝のがづいていたが、美緒が起きてくる気配がなかったからだ。
「美緒、朝ご飯こう」
軽く扉を叩いた。
返事はない。
広告
「まだ寝てるの?」
今度はしくノックした。
それでも物音ひとつ聞こえなかった。
嫌な覚が、由の胸の奥に広がった。
恐る恐るドアノブへをかけると、鍵はかかっていなかった。
古い扉を押しけた瞬、由はそのでち止まった。
部には誰もいなかった。
布団は乱れたまま敷かれ、枕にはがを乗せていたようなくぼみが残っていた。なくとも、誰かが度はそこで横になったことだけは分かった。
「美緒……?」
由は部へ入り、浴や押し入れまで確認した。
しかし妹の姿はない。
部の隅には、美緒が持ってきたボストンバッグがそのまま置かれていた。を確認すると、財布も分証も、普段使っていた腕計も残っていた。
旅先で、財布も分証も持たずにどこへったというのか。
消えていたのは、のカーディガンと旅館のスリッパ1だけだった。
その、たいが由の頬を撫でた。
部の奥にある窓が、きくいていた。
いカーテンがに煽られ、何度も窓枠へ当たって音をてている。由は駆け寄り、恐る恐るを覗き込んだ。
部は2階だった。
には旅館裏の狭いがあるだけで、まともなもなかった。スリッパを履いたまま窓からりるなど、考えにくかった。
窓枠にも、からがよじ登ったような目つ痕跡はなかった。
由は青ざめた顔で廊へた。
「あなた、ちょっと来て!」
呼ばれた健は、自分たちの部からてきた。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
日本一情の深い父の裏の顔
妹がサービスエリアで姿を消して5年。全国を巡り「日本一情の深い父親」と称賛される父から、私は古いワゴン車を譲り受けた。だが車内の清掃中、妹の指定席だったシートベルトが事故の衝撃で「4センチ」伸びきっているのを発見する。さらに奥底から見つかったのは、刃物で切断された妹の防犯ブザーだった。父に問いただすと、かつてない冷酷な声で「今すぐ車を処分しろ」と脅され――。私は父の狂気と真実を暴くため、ある決断を下す。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明3.1万字5 75 -
完結第11話
九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯
午前九時三十四分、地下鉄の車内で若い男が突如狂乱し、中年客の顔面を骨が軋むほど殴打した。床一面に飛び散る鮮血。だが、隣に座る同じ社章をつけた上司は、ただ口をあわあわと震わせ「腰を抜かして」座り込むだけだった。乗客たちと男を取り押さえ、駅員にすべてを通報した俺。しかし翌日、警察の発表も新聞の三面記事も、この凄惨な事件を「最初から存在しなかった」かのように完全に黙殺していた。なぜあの凄惨な暴力は一行も報道されず、駅の防犯カメラ映像すら消去されたのか。数年後、俺はある大手企業の役員名簿の中に、あの朝、冷たいホームの柱にすがってガタガタと震えていた「あの上司」の顔写真を見つけ、息を呑んだ――。ミステリー|真実1.6万字5 101 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176 -
完結第25話
一度も抱かれなかった娘
出産翌日に姿を消した妻の代わりに、私は男手一つで娘を育ててきた。「母親は抱っこも拒んで逃げた」と言い聞かせ続けて五年。カルテの保管期限が切れ、産院に呼び出された私の前に置かれたのは、妻が失踪直前に提出した母子同室申請書と一枚のガーゼだった。申請書の最下段には私の拒否印が押されており、持ち帰った鞄からこぼれ落ちた布を拾い上げた五歳の娘は、ピンクの刺繍を指でなぞりながら私を見上げた。夫婦|真相|行方不明|親子関係3.8万字5 142 -
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 2982 -
完結第12話
左足だけの靴箱
隣室の吉岡さんが部屋で亡くなった。付き合いのなかった老人の遺品整理に立ち会った彩香は、業者から「故人の遺言」として段ボール箱を手渡される。中に入っていたのは、彩香が過去5年間に自宅の玄関から消えたはずの「左足の靴」12足。そして、それと対になる新品の右足の靴。靴底をめくると、そこには夫が「深夜残業」と偽っていた日付のタクシー領収書が隠されていた。妻が知ることになる、5年前の事故と夫の病的な贖罪の真相とは。ミステリー|夫婦1.8万字5 47 -
完結第19話
全員が揃えた同じ嘘
小学五年の秋、担任の女性教諭が突然退職し、学校は精神の病気だと説明した。だがその日の放課後、私を含めたクラス二十三人の児童は、それぞれの家庭で「先生は午後三時に帰りました」と全く同じ嘘を親に答えた。口裏を合わせた覚えはない。半年後、唯一何も言わずに転校していった無口な少女が、私の机の引き出しに一枚のメモを残した。そこには『先生は三時のとき、まだ地下室にいました』と記されていた。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明2.8万字5 95 -
完結第11話
亡き義母の口座を洗う女
3年前に7年間の壮絶な介護の末に他界し、この手で骨壺に納めたはずの義母。だが解約し忘れていた古い通帳を繰り越すと、死後も毎月「生前給与」が振り込まれ、毎週水曜の深夜に即座に引き出されていた。深夜のコンビニで張り込んだ私が見たのは、義母の服を着て義母と全く同じ体の癖を持つ見知らぬ女。死者は生きているのか。真実を追う私は、隣で眠る夫が隠していた、狂気と冷酷に満ちた「生前名義ビジネス」の底なし沼へと引きずり込まれていく。ミステリー|嫁姑|夫婦1.6万字5 51