"300億を捨てた相場師" 第1話
199910。
野県桑原は、方をに囲まれた静かな方都だった。
町れのなだらかな台をっていくと、見渡す限りのりんご畑が広がっている。になれば枝という枝に赤い実がたわわに実り、朝を受けて艶やかに輝いた。
その台のいちばんに、周囲の農とはらかに雰囲気の違うが建っていた。
い壁のきな館。
広い庭には入れのき届いた芝が敷かれ、派なの内側には国製の級がまっている。
そこに暮らしていたのが、58歳の梶常だった。
常は株式投資で巨額の財産を築いた男だった。その資産は300億円に達するとも噂され、々はいつしか彼を「桑原の相師」と呼ぶようになっていた。
バブル崩壊の況でくの々が資産を失う、常だけは違った。
々が恐怖に駆られて株を売るに買い、誰もが狂して買い始める頃には静かに放す。
その静さと読みの鋭さで、彼の財産はむしろ増え続けていた。
だが、暮らしぶりはなほどだった。
常は滅に町へりなかった。必な用事があるだけ姿を見せ、用を済ませればすぐ台のへ戻っていく。
装はいつもい、言葉遣いも丁寧だったが、誰かと親しく話している姿を見た者はほとんどいなかった。
には妻のみつ子がいた。
広告
娘の直子はすでに結婚し、隣県で庭を持っている。は町から通ってくる政婦の女性が事を伝っていた。
そんなあるの朝だった。
午8をし回った頃、政婦がいつものように台のを訪れた。
朝の空気はすでにたく、りんご畑のにはいが残っていた。
勝からに入り、台所の窓をける。
そこで彼女は、ふとを止めた。
静かすぎる。
普段なら、このには常が斎で聞を読んでいる。あるいは2階から音が聞こえてくる。
しかし、その朝は何の物音もしなかった。
「旦様?」
返事はない。
彼女は廊をみ、恐る恐る斎の扉をけた。
誰もいなかった。
机のには、読みかけの聞が几帳面に畳まれている。
2階の寝にも常はいなかった。
ベッドは自然なほどきれいにっていた。
掛け布団には皺ひとつなく、まるでの晩から誰も眠っていなかったかのようだった。
政婦は急いでみつ子に連絡した。
その朝、みつ子は親戚の法事を伝うため町へていた。連絡を受けて戻ったのは昼だった。
「あなた?」
玄関をけるなり、みつ子は夫を呼んだ。
「あなた、どこにいるの?」
を探した。
だが、常の姿はどこにもない。
そして2は、さらに奇妙なことに気づいた。
常の財布は斎の引きしに入ったままだった。
広告
預通帳も印鑑も、いつもの所に並んでいる。
級はガレージにまったまま。
分証も携帯話もに残されていた。
つまり常は、ほとんど何も持たずに消えていた。
もない。
もない。
元を証するものさえ持っていない。
まるで、ほんのし庭へるつもりだったかのように。
そして、もう1つだけ解なことがあった。
玄関の鍵が、内側からけられていた。
窓ガラスが割られた形跡もなければ、誰かが押し入った跡もない。
のは荒らされていなかった。
普段、戸締まりには倍細かかった常が、その夜に限って自ら玄関の鍵をけていた。
それは、彼が自分ので夜のへ歩いていったことを示しているようにも見えた。
午、桑原警察署から警察官が到着した。
捜査のとなったのは、刑事の矢島だった。
40代半ば。
数はくなく、派な印象もない。だが、の話を最まで聞き、さな違を忘れない刑事だった。
これほどの資産である。
警察が最初に疑ったのは誘拐だった。
だが、代を求する連絡は来なかった。
内に争った跡もなく、血痕もない。
庭にも審な跡やの轍は残っていなかった。
ならば、自らをたのか。
しかし、それならなぜ財布さえ持っていないのか。
矢島にはどうしても理解できなかった。
そのの夕方、彼はみつ子から詳しい話を聞いた。
「ご主に最、変わった様子はありませんでしたか?」
「いいえ。特には」
「借や、誰かとの揉め事は?」
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
日本一情の深い父の裏の顔
妹がサービスエリアで姿を消して5年。全国を巡り「日本一情の深い父親」と称賛される父から、私は古いワゴン車を譲り受けた。だが車内の清掃中、妹の指定席だったシートベルトが事故の衝撃で「4センチ」伸びきっているのを発見する。さらに奥底から見つかったのは、刃物で切断された妹の防犯ブザーだった。父に問いただすと、かつてない冷酷な声で「今すぐ車を処分しろ」と脅され――。私は父の狂気と真実を暴くため、ある決断を下す。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明3.1万字5 75 -
完結第11話
九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯
午前九時三十四分、地下鉄の車内で若い男が突如狂乱し、中年客の顔面を骨が軋むほど殴打した。床一面に飛び散る鮮血。だが、隣に座る同じ社章をつけた上司は、ただ口をあわあわと震わせ「腰を抜かして」座り込むだけだった。乗客たちと男を取り押さえ、駅員にすべてを通報した俺。しかし翌日、警察の発表も新聞の三面記事も、この凄惨な事件を「最初から存在しなかった」かのように完全に黙殺していた。なぜあの凄惨な暴力は一行も報道されず、駅の防犯カメラ映像すら消去されたのか。数年後、俺はある大手企業の役員名簿の中に、あの朝、冷たいホームの柱にすがってガタガタと震えていた「あの上司」の顔写真を見つけ、息を呑んだ――。ミステリー|真実1.6万字5 101 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176 -
完結第25話
一度も抱かれなかった娘
出産翌日に姿を消した妻の代わりに、私は男手一つで娘を育ててきた。「母親は抱っこも拒んで逃げた」と言い聞かせ続けて五年。カルテの保管期限が切れ、産院に呼び出された私の前に置かれたのは、妻が失踪直前に提出した母子同室申請書と一枚のガーゼだった。申請書の最下段には私の拒否印が押されており、持ち帰った鞄からこぼれ落ちた布を拾い上げた五歳の娘は、ピンクの刺繍を指でなぞりながら私を見上げた。夫婦|真相|行方不明|親子関係3.8万字5 142 -
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 2982 -
完結第12話
左足だけの靴箱
隣室の吉岡さんが部屋で亡くなった。付き合いのなかった老人の遺品整理に立ち会った彩香は、業者から「故人の遺言」として段ボール箱を手渡される。中に入っていたのは、彩香が過去5年間に自宅の玄関から消えたはずの「左足の靴」12足。そして、それと対になる新品の右足の靴。靴底をめくると、そこには夫が「深夜残業」と偽っていた日付のタクシー領収書が隠されていた。妻が知ることになる、5年前の事故と夫の病的な贖罪の真相とは。ミステリー|夫婦1.8万字5 47 -
完結第19話
全員が揃えた同じ嘘
小学五年の秋、担任の女性教諭が突然退職し、学校は精神の病気だと説明した。だがその日の放課後、私を含めたクラス二十三人の児童は、それぞれの家庭で「先生は午後三時に帰りました」と全く同じ嘘を親に答えた。口裏を合わせた覚えはない。半年後、唯一何も言わずに転校していった無口な少女が、私の机の引き出しに一枚のメモを残した。そこには『先生は三時のとき、まだ地下室にいました』と記されていた。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明2.8万字5 95 -
完結第11話
亡き義母の口座を洗う女
3年前に7年間の壮絶な介護の末に他界し、この手で骨壺に納めたはずの義母。だが解約し忘れていた古い通帳を繰り越すと、死後も毎月「生前給与」が振り込まれ、毎週水曜の深夜に即座に引き出されていた。深夜のコンビニで張り込んだ私が見たのは、義母の服を着て義母と全く同じ体の癖を持つ見知らぬ女。死者は生きているのか。真実を追う私は、隣で眠る夫が隠していた、狂気と冷酷に満ちた「生前名義ビジネス」の底なし沼へと引きずり込まれていく。ミステリー|嫁姑|夫婦1.6万字5 51