"母に届かなかった10円" 第5話
受話器の向こうから、押し殺したような呼吸だけが聞こえた。
「お姉ちゃん?」
女がもう度呼ぶと、姉が泣いているのが分かった。
その瞬、何か悪いことが起きたことを、説されるに理解した。
「お母さんは?」
声が震えた。
姉は泣きながら答えた。
母は、つい先ほど息を引き取ったという。
女は何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
母がくなった。
さっきまできていた。
自分が駅で10円玉を探していたにも、母はまだどこかで息をしていた。
「嘘でしょう」
女はそう言った。
もちろん姉が嘘をついているはずはない。
それでも、そう言うしかなかった。
「さっきまで……」
姉が途切れ途切れに言った。
「お母さん、あなたのこと呼んでたのよ」
女のから力が抜けた。
受話器を落としそうになり、慌てて両で持ち直した。
「私を?」
「うん。何度も」
それ以、姉が何を話したのか、女はになってもほとんど覚えていなかった。
母がどのように倒れたのか。
誰がそばにいたのか。
医者が何を言ったのか。
聞いたはずだった。
けれど記憶に残ったのは、たったつだった。
母が自分を呼んでいた。
その、自分は話をかけられずに駅をり回っていた。
原因は、たった10円玉枚だった。
女はその夜、実へ向かった。
の窓に映る自分の顔を見ても、現実がなかった。
母がもういない。
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実へ帰っても声を聞くことはできない。
さっきまでなら、話の向こうで母と話せたかもしれない。
その考えがかられなかった。
もちろん、女自にも分かっていた。
もっとく話をかけられたところで、母の命を救えたわけではない。
10円玉が財布に枚入っていたとしても、すぐ実へ帰れる距ではなかった。
話で声を聞けたとしても、それが母の最期を変えることはなかったかもしれない。
むしろ何も変わらなかった能性の方がい。
それでも、の悔は理屈だけでは消えなかった。
「あの、10円があれば」
その言葉だけが残った。
すぐ話できていれば。
母の声を度でも聞けたのではないか。
「丈夫?」と尋ねられたのではないか。
「今から帰るから」と伝えられたのではないか。
あるいは、母の方から何か言言えたのではないか。
考えても答えはない。
答えがないからこそ、その考えは何度も戻ってきた。
葬儀が終わり、京へ戻ってからも同じだった。
仕事でミシンを踏んでいる、突然いす。
駅のホームを歩いている、公衆話が目に入る。
財布ので10円玉が触れう音がすると、あの夕方へ引き戻された。
それから女は、財布のに10円玉があるかを何度も確かめる癖がついた。
をる。
仕事を終える。
駅へ向かう。
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最でも枚は入っていることを確認した。
それでも母のことをいさなくなるは来なかった。
何か経つと、周囲のにとって母のは昔の来事になった。
女も普段は普通に暮らしていた。
仕事をし、買い物をし、に乗る。
笑うこともあった。
けれどの奥には、駅の公衆話と、のになかった10円玉の触だけが残っていた。
あの、誰かが公衆話の横に枚置いていてくれたなら。
誰かが「使っていいよ」と言ってくれたなら。
わずか数分でもく実へ話をかけられたのではないか。
その数分にがあったかどうかは分からない。
だが、なくとも「あの10円がなかったから」という悔だけは残らなかったかもしれない。
女はい、そのいを誰にも話さなかった。
姉にも詳しくは言わなかった。
裁のたちにも言わなかった。
たった10円玉の話をすれば、自分が母のを銭のせいにしているように聞こえる気がしたからだ。
本当は違った。
10円玉が悪いわけではない。
駅員が悪いわけでも、売のが悪いわけでもない。
誰も悪くなかった。
ただ、必なに必な枚が自分のになかった。
それだけだった。
が過ぎるにつれ、公衆話を使うことにも慣れた。
それでも、急いで財布のを探しているを見ると、女のは自然に止まった。
話ボックスので銭を数える学。
鞄のを何度も探す会社員。
泣きそうな顔で貨を握っている若い母親。
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