"飛騨の農家に消えた嫁" 第1話
1995の、岐阜県騨方のあいにあるには、まだの名残が濃く残っていた。標400メートルを超える裾に囲まれた集落では、4になっても朝方にがり、牛舎から漂う独特の匂いがたい空気とともにへ沈んでいた。
全体でも23戸ほどしかなく、その半数くが牛を育てる農だった。町の部へ向かうにるまで細いが続き、線バスも1に3本、最終便は午6には終わるようなだった。
田ゆき子がこのへやってきたのは、そのの3末だった。富県のゆき子は27歳で、騨で牛農を営む健、31歳と結婚した。
2は見いでりった。
顔わせから結婚まで、3かもかからなかった。
周囲には「し急ぎすぎではないか」と言う者もいたが、ゆき子の実には事があった。父親はすでに脳卒で倒れており、母親の涼子が病と活を1で背負っていた。
娘を定した嫁ぎ先へ送りすこと。
それが当の涼子にできる、精いっぱいのことだった。
はでも古くから続く牛農で、約5000平方メートルの田畑と2棟の牛舎を所していた。決して裕福というほどではなかったが、牛を育ててきたとして周囲から目置かれていた。
ゆき子を覚えているたちの印象は、どれもよく似ていた。
広告
静かなだった。
よく働くだった。
そして笑う、元より先に目が笑うだった。
朝5には牛舎へき、照をつけ、牛に与える餌の準備を始めた。族の朝をえたは掃除をし、は田畑や牛舎をき来し、夕方になってもを休めることはほとんどなかった。
結婚して最初の、梅ので牛舎の根の部が壊れたことがあった。
夫の健たちが修理を始めると、ゆき子も頼まれていないのに資材を運び始めた。濡れた根材を何度も持ちげ、のひらをすりむいても何も言わず、最まで作業を続けたという。
隣の農にむ伊藤という老女は、そのの姿をよく覚えていた。
「あのお嫁さんは、本当によく働いたよ。誰かに言われたからじゃない。自分から何でもやっていた」
しかし、その勤勉さの裏側で、ゆき子はしずつ孤していった。
実のある富には病気の父親がいるため、気軽に帰ることができなかった。には同代の女性がほとんどおらず、買い物へるにもバスのを気にしなければならなかった。
話し相のいないが続いた。
ゆき子が最もく過ごす所は、いつしかの居ではなく牛舎になっていた。
牛のそばへしゃがみ込み、餌をべる様子を見ながら、さな声で何かを話していることもあったという。
広告
所のがくから見かけても、ゆき子はの気配に気づくとちがり、何事もなかったように仕事へ戻った。
にとって、ゆき子は最初から「から来た嫁」だった。
そしてのでも、そのは決して楽なものではなかった。
義母は、ゆき子を面と向かって褒めることがなかった。
事の盛りつけが違う。
牛に餌を与えるが遅い。
掃除の順番が悪い。
富の女は付けがい。
どれも1つ1つだけならさな言葉だった。しかし朝から晩までそれが積みなると、ゆき子の表から笑顔が消えるが増えていった。
それ以に彼女を傷つけたのは、結婚からしばらくしてので繰り返されるようになった問いだった。
「まだ兆候はないのか」
子供のことだった。
ゆき子に子供ができないことが、いつのにかの卓で当然のように語られる話題になった。矛先は常に嫁であるゆき子へ向けられ、夫の健はそのにいても、ほとんどを挟まなかった。
ある、義母の言葉にゆき子がさく俯いた。
健はその横で箸をかしていたが、何も言わなかったという。
ゆき子の最の写真として残ることになる1枚は、1995に撮された。
の庭にある柿ののだった。
枝には赤く熟した柿が鈴なりになり、ゆき子は作業で使っていた赤いゴム袋を片に持ってっていた。
カメラを向けられると、し恥ずかしそうに肩をすぼめ、それでも柔らかく笑っていた。
広告
おすすめ作品
-
完結第21話
日本一情の深い父の裏の顔
妹がサービスエリアで姿を消して5年。全国を巡り「日本一情の深い父親」と称賛される父から、私は古いワゴン車を譲り受けた。だが車内の清掃中、妹の指定席だったシートベルトが事故の衝撃で「4センチ」伸びきっているのを発見する。さらに奥底から見つかったのは、刃物で切断された妹の防犯ブザーだった。父に問いただすと、かつてない冷酷な声で「今すぐ車を処分しろ」と脅され――。私は父の狂気と真実を暴くため、ある決断を下す。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明3.1万字5 75 -
完結第11話
九時三十四分の地下鉄、消えた暴行犯
午前九時三十四分、地下鉄の車内で若い男が突如狂乱し、中年客の顔面を骨が軋むほど殴打した。床一面に飛び散る鮮血。だが、隣に座る同じ社章をつけた上司は、ただ口をあわあわと震わせ「腰を抜かして」座り込むだけだった。乗客たちと男を取り押さえ、駅員にすべてを通報した俺。しかし翌日、警察の発表も新聞の三面記事も、この凄惨な事件を「最初から存在しなかった」かのように完全に黙殺していた。なぜあの凄惨な暴力は一行も報道されず、駅の防犯カメラ映像すら消去されたのか。数年後、俺はある大手企業の役員名簿の中に、あの朝、冷たいホームの柱にすがってガタガタと震えていた「あの上司」の顔写真を見つけ、息を呑んだ――。ミステリー|真実1.6万字5 101 -
完結第19話
三十二人目の卒業写真
教職を退いた夜、三十年前に送り出した最初の教え子たちが開いてくれた送別会で、私は三十一人分の感謝の手紙を受け取った。だが自宅で数え直すと、名簿にない三十二通目の白い封筒が混ざっていた。便箋には「全員が卒業しました。私一人を残して」とだけ記されていた。翌日、私が困惑して生徒たちに当時の記憶を尋ねると、誰もが存在を否定し、深夜の受話器の向こうから「あの子のこと、墓場まで隠し通すつもりですか」昭和|ミステリー|因果応報|真相2.8万字5 176 -
完結第25話
一度も抱かれなかった娘
出産翌日に姿を消した妻の代わりに、私は男手一つで娘を育ててきた。「母親は抱っこも拒んで逃げた」と言い聞かせ続けて五年。カルテの保管期限が切れ、産院に呼び出された私の前に置かれたのは、妻が失踪直前に提出した母子同室申請書と一枚のガーゼだった。申請書の最下段には私の拒否印が押されており、持ち帰った鞄からこぼれ落ちた布を拾い上げた五歳の娘は、ピンクの刺繍を指でなぞりながら私を見上げた。夫婦|真相|行方不明|親子関係3.8万字5 142 -
完結第21話
十年前に死んでいた夫
病に倒れた夫を十三年間看取り、質素な火葬を終えた私は、医療記録の精算のため大久保総合病院の窓口へ向かった。だが職員から告げられたのは、データベースに夫の名はなく、提示した診察券は十年前に死亡した二十代の別人の番号だという宣告だった。半乱心で戻ったアパートを捜索するも、夫名義の保険証も免許証も通帳すら一枚も見当たらない。十三年間私の隣で息をしていた男の痕跡が、この世のどこにも存在しない現実に立ち尽くした。ミステリー|夫婦|介護|修羅場3.1万字5 2982 -
完結第12話
左足だけの靴箱
隣室の吉岡さんが部屋で亡くなった。付き合いのなかった老人の遺品整理に立ち会った彩香は、業者から「故人の遺言」として段ボール箱を手渡される。中に入っていたのは、彩香が過去5年間に自宅の玄関から消えたはずの「左足の靴」12足。そして、それと対になる新品の右足の靴。靴底をめくると、そこには夫が「深夜残業」と偽っていた日付のタクシー領収書が隠されていた。妻が知ることになる、5年前の事故と夫の病的な贖罪の真相とは。ミステリー|夫婦1.8万字5 47 -
完結第19話
全員が揃えた同じ嘘
小学五年の秋、担任の女性教諭が突然退職し、学校は精神の病気だと説明した。だがその日の放課後、私を含めたクラス二十三人の児童は、それぞれの家庭で「先生は午後三時に帰りました」と全く同じ嘘を親に答えた。口裏を合わせた覚えはない。半年後、唯一何も言わずに転校していった無口な少女が、私の机の引き出しに一枚のメモを残した。そこには『先生は三時のとき、まだ地下室にいました』と記されていた。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明2.8万字5 95 -
完結第11話
亡き義母の口座を洗う女
3年前に7年間の壮絶な介護の末に他界し、この手で骨壺に納めたはずの義母。だが解約し忘れていた古い通帳を繰り越すと、死後も毎月「生前給与」が振り込まれ、毎週水曜の深夜に即座に引き出されていた。深夜のコンビニで張り込んだ私が見たのは、義母の服を着て義母と全く同じ体の癖を持つ見知らぬ女。死者は生きているのか。真実を追う私は、隣で眠る夫が隠していた、狂気と冷酷に満ちた「生前名義ビジネス」の底なし沼へと引きずり込まれていく。ミステリー|嫁姑|夫婦1.6万字5 51