"教室の最後列に座る元教員" 第20話
「あの!」
振り返ると、タライのにっていた悠君が、ゴム袋をしてこちらを見ていた。
赤く腫れがったをだらりとげ、はまっすぐに私を見つめていた。
「……顕微鏡、俺、ちゃんと直すの伝いました」
器用な、ぶっきらぼうな声だった。
「ガラスの破片も、全部拾いました。……には、ちゃんと学にきます」
私はち止まり、そのの顔を見つめた。
頬の傷はまだ消えていなかったが、その瞳の奥には、確かなが宿っていた。
誰かに庇われた無実のではない。
自分の罪を噛み締め、痛みに耐え、それでもを向こうとするの、く、静かなだった。
「……ええ」
私は微笑んだ。
自然と、元が綻んでいた。
「頑張りなさい、悠君。……寒いわよ。邪を引かないようにね」
はさく「はい」と頷き、再び真鍮のブラシを握り直した。
ガリ、ガリ、と力い属音が、の空のに響き渡った。
私はのをて、国へと続くを歩いた。
背を振り返ることは、もうしなかった。
ののほうじ茶の缶は、すっかりたくなっていたけれど、私の胸の奥には、ぶりに訪れた穏やかな静寂が、の陽だまりのように広がっていた。
季節は巡り、が訪れた。
のの教では、活最となる保護者会がかれていた。
決定に向けたな説会ということもあり、教はくの保護者で埋め尽くされていた。
広告
就職を目指す徒、学学を控えた徒、それぞれの将来を見据えた張り詰めた空気が漂っている。
教の扉側の最列。
番端の席には――誰も座っていなかった。
パイプ子は机のに然と押し込まれ、黒板からの午の柔らかなが、誰もいない机の目を静かに照らしていた。
その空席から列の席に、健が座っていた。
相変わらずの紺の作業着姿だったが、背の黒い油染みは綺麗に洗い落とされ、く刈られた髪は清潔にえられていた。
彼はもう、背を丸めてはいなかった。
膝ので拳を握りしめることもなく、広く逞しい背筋をピンと伸ばし、担任が語る指導の言葉を言も逃すまいと、正面の黒板だけをまっすぐに見つめていた。
彼の真ろの席には、もう誰もいない。
彼を監する者も、れむ者も、偽りの同を注ぐ者も、そこにはいなかった。
彼はただの父親として、自分の息子の未来と、堂々と向きっていた。
同じの午。
私はの部にある、さなフラワーショップの先にっていた。
自宅の居の、あの表彰状をしたい壁のに飾るための、黄いフリージアの鉢植えを選んでいた。のが、甘いのりを運んでくる。
「ありがとうございました」
員から鉢植えを受け取り、をて交差点の信号待ちでち止まっただった。
広告
の先、赤信号でした軽トラックの列のに、見覚えのあるい体があった。
荷台には、溶接用のボンベと、使い込まれた具箱が積まれている。
運転席の窓がいていた。
ハンドルに太い腕を預け、腕まくりをした作業着の男が、何気なくこちらの歩に目を向けた。
健だった。
線が、交錯した。
の柔らかな差しの、距にしてメートルほど。
私たちは互いに、声をげることも、駆け寄ることもなかった。
劇な再会でも、涙の解でもない。
ただ、々の暮らしを懸命にきる者同士の、静かな沈黙が流れた。
やがて、健君はハンドルを握ったまま、私に向かって、さく度だけ頷いた。
それは、としての、の自したとしての、静かな会釈だった。
私もまた、抱えたフリージアの鉢にを添え、まっすぐに彼を見つめ、く、丁寧にをげた。
交差点の信号が、青に変わった。
軽トラックのエンジンがく唸りをげ、のを巻き込みながら、滑らかに発していった。
ざかるい体が、曲がり角の向こうへと消えていく。
私は顔をげ、歩きした。
の歳をかけて、私は自分が「徒を正しく見られる教師」であることを証しようとしてきた。
けれど、最の最に私がったのは、罪悪という名のレンズもまた、をどこまでも盲目にさせるという残酷な真実だった。
を本当に見るということは、そのの過ちを代わりに背負ってやることではない。
そのが自らの過ちと向きい、自らのでを払ってちがる姿を、信じて、放すことなのだ。
それを教えてくれたのは、教壇のの私ではなく、あの教から追いされた、の器用な教え子だった。
空はどこまでも青く澄み渡っていた。
私は胸いっぱいにの空気を吸い込み、黄いをしっかりと抱きしめながら、自分ので、を向いて歩き続けた。
広告
おすすめ作品
-
完結第19話
完璧な夫に給料を突き返した朝
毎月二十五日、夫は手取り四十五万円の給料を一円も引かずに私の口座へ振り込み、親戚の前で完璧な夫として称賛されている。だがその裏で、私は息子の塾代を払うために結婚五周年の指輪を買取店へ持ち込んでいた。固定費と夫のカード代だけで毎月赤字が続き、私の独身時代の貯金も底をついた。翌朝、いつも通り振り込まれた四十五万円の通知を見つめた私は、その全額をそのまま夫の口座へ送金し、スマートフォンの画面を伏せた。嫁姑|夫婦|金銭問題|修羅場2.9万字5 0 -
完結第18話
「この子は俺の子じゃない」
二十六時間に及ぶ難産を終え、産室を出た私を待っていたのは双方の両親の涙と祝福だった。だが壁際に立つ夫は一歩も近寄らず、「この子は俺の子じゃない」と冷たく言い放った。色めき立つ義父母から不倫を激しく追及される中、私の口から咄嗟に出たのは無実を叫ぶ声ではなく、「今日だけは言わない約束でしょ」という悲鳴だった。冷え切った目で私を見下ろす夫の手が、私のカーディガンの前立てにかかる。裡切られた|兄弟姉妹|夫婦|修羅場2.7万字5 2 -
完結第20話
祖母は十二年年賀状を書いてない
八十歳を迎えた祖母のため、私はいとこたちと過去十二年分の年賀状を集めて記念のアルバムを作った。毎年元旦に届く「元気に暮らしています、トマトがたくさん実りました」という三行は、遠方で暮らす私たちが実家の無事を疑わずに済む確かな証拠だった。だが親戚一同が集まる祝宴の席でアルバムを開いた瞬間、祖母は整った文字を見つめ、十二年間一度も年賀状など書いていないと言い放った。親族の視線が一斉に、実家の近くで暮らす叔母へと向かう。孤獨|親子関係|介護|認知症3.0万字5 0 -
完結第21話
優しい教室で震える息子
息子が突然学校に行けなくなり、担任は「いじめなどなくクラス全員に愛されている」と胸を張った。不審に思った私が息子のランドセルを調べると、底板の裏から三十七枚の給食費受領書が出てくる。我が家は困窮などしていないのに、三ヶ月間、生徒全員が日替わりで息子の昼食代を立て替えていた。私が学校へ確かめに行こうとした瞬間、息子は「言わないで」と叫んで床に泣き崩れ、その紙片を必死に胸へ抱え込んだ。怒り|裡の顔|親子関係|金銭問題3.2万字5 0 -
完結第15話
五人の元彼と三万一千円
結婚式当日の朝、ホテルのフロントに差出人不明の現金書留が五通届いた。中身はすべて、三万一千四百八十円という奇妙な端数のご祝儀だった。面識のない私の歴代の元彼五人からだと気づき、私は血の気を引かせて金庫への保管を頼み込む。だが、不審に思った夫が私の手提げから抜き取ったのは、三週間前に私がその五人へ同額を送金した明細だった。親族紹介まであと十五分、夫は控え室の鍵を閉め、冷たい目で私を見下ろした。夫婦|裡の顔|金銭問題|修羅場2.2万字5 19 -
完結第23話
母の職場で死んでいた私
母の定年退職をサプライズで祝うため、私は東京から新幹線に乗り宴会場へ駆けつけた。お祝いの品を手にして扉を開けた瞬間、母の同僚は手にしたグラスを取り落とし、顔を青ざめて後ずさりした。毎年盆と正月には実家へ顔を出し、仕送りも続けていたはずの私は、母が二十八年勤めた職場では十五年前に事故で亡くなった娘として扱われていた。ステージを駆け下りてきた母は私の手首を強く掴み、そのまま非常階段へと力任せに引きずり出した。親不孝|親子関係|退職金|修羅場3.5万字5 33 -
完結第23話
締め出された新社長
父から印刷会社を継ぎ、代表取締役として誰よりも早く出社した初日の朝、私のカードキーだけが赤く点滅して通用口が開かなかった。清掃員や入社三カ月の新人、配送トラックが次々と通過していく中、古参の会計は「先代の指示で権限を削除した」と告げる。社内では判断を下せる者がおらず、営業と現場の怒号が響き合い、輪転機が完全に停止した。私は閉ざされたガラス扉の脇にパイプ椅子を置き、冷たい缶コーヒーを握りしめた。職場逆転|人生逆転|怒り|親子関係|修羅場3.5万字5 55