みかん小説
本棚

"十年の沈黙と離婚届" 第5話

の表面には、太い活字で『婚届』と印刷されておりました。 すでに夫の署名押印の欄には、孝幸の跡で乱暴に名が記され、朱肉の鮮やかな赤が押されておりました。

「……、して置いてやったがな」

孝幸は背もたれに寄りかかり、顎をしゃくってそのを指差しました。

「もう限界だ。子供のも産めず、気の利いた会話もできず、をてることもできん役たずは、が宗方のにはらん。今限りでてってもらう」

隣で、義父が々しく頷き、扇子の先で机を叩きました。 「そうだ。宗方の血筋を引く跡取りも残せぬ無能な嫁など、これ以養っておく義理はない。親戚からも『なぜあんな来損ないをいつまでも置いておくのか』と突きげをらっていてな。清々するわ」

義姉は、懐で元を隠しながら、刻みに肩を震わせてせせら笑いました。 「本当によかったわね、孝幸さん。これであなたも、もっと若くて綺麗で、うちの柄にふさわしいお嬢さんを堂々と迎えられるわ。……ほら、さん、さっさと判を押しなさいよ。着の着のままで追いされないだけ、ありがたいといなさい」

障子ので、激しい音がザアザアと庭の々を揺らしておりました。 私は、座布団のに正座をしたまま、卓のに放りされたそのいを、指先で静かに元へ引き寄せました。

広告

。 私が青のすべてを捧げ、誰よりもく起き、誰よりも遅く眠り、を啜るような侮辱に耐えながら尽くしてきた歳が、この枚のっぽい切れによって、無慈に否定された瞬でございました。

けれど――私の指先は、片も震えておりませんでした。 激しいりも、込みげるもございませんでした。 ただ、驚くほど澄み切った、どこまでも静かな気が、私の胸の奥底から全の血管へと巡っていくのを、私はただじっとじておりました。

の忍耐。 それは、こののためにあったのだと。 熟した果実が、ついに枝から音もなくれ落ちる瞬が、今、目のに訪れたのだと悟ったのでございます。

「……分かりました」

私は、ただ言、静かにそう答えました。 取り乱すこともなく、涙を流すこともなく、平然と言い放った私の声に、孝幸たちは瞬だけ拍子抜けしたような顔をいたしました。けれど、すぐに「がりおって」「く当てのない女のれな引きがりだ」と、再び卑た笑い声を取り戻しました。

誰も気づいておりませんでした。 私が受け取ったその婚届が、彼らにとっては私を追放するための絶縁状であり、私にとっては――じっと待ち続けていた、反撃の蓋を切るための「図」であったということに。

私は婚届を丁寧につ折りに畳み直し、着物の帯のへと音もなく滑り込ませました。

広告

その夜、自の狭い敷布団ので、私はこので度もなかったほど、く、穏やかな眠りに落ちました。 枕元に置いたその枚のは、私の耐え忍んだ々の終わりを告げると同に、彼らの偽りの栄華が崩壊へと転がり落ちる、な物語の始まりを告げる号砲だったのでございます。

翌朝、の空がみ始めた頃、私は台所にって朝の支度を済ませました。 全員の膳をえ、孝幸の勤を見送り、義父母が自で朝茶を啜り始めたのを見届けてから、私は昨夕と同じように、廊の奥の話台のにちました。 元の指先はたく澄み、呼吸のつ乱れておりませんでした。

受話器をに当て、記憶のにあるい数字の並びをプッシュいたします。 この番号は、私がこのに嫁いで以来の数、度たりとも部へ向けてにしたことのない、グループ枢の直通秘ラインでございました。

呼びし音が、受話器の奥で静かに度鳴りました。 カチャリと通話が繋がり、に届いたのは、グループの枢を支えてきた秘の、季の入った落ち着いた声でした。

『――はい、会専用直通ラインでございます』

「私です」

私が名乗ったその瞬、話越しに、秘が背筋をピンと正し、息を呑む気配がはっきりと伝わってまいりました。

『……かい、会……!』

広告

おすすめ作品

リンクを共有

以下のリンクをコピーして友達と共有してください: