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"廃業寸前の豆腐屋に来た東大院卒の母親" 第8話

元司の訪問と突然の別れ

翌の午。

スーツ姿の男が、にやってきた。

昨話をかけてきた男だ。

鋭い目つきと、神経質そうな細いフレームの鏡。

いかにも企業のという空気をまとっていた。

男は、レジ打ちをしていた美咲のにつと、たい声で言った。

「瀬(たかせ)です。探したよ、美咲くん」

美咲は、レジにをついたまま直していた。

「私はもう、御社とは関係ありません」

美咲の声は震えていたが、必にがっているようにも聞こえた。

「そういうわけにもいかない」

瀬と名乗った男は、のをぐるりと見回した。

「君が担当していた研究資料について、確認したいことがある」

「研究資料……」

その言葉を聞いた瞬、美咲の顔が張った。

俺は、奥の厨から歩みた。

「ので、うちの従業員を困らせないでもらえますか」

俺は、男と美咲のに割って入った。

男は、値踏みするように俺の顔を見た。

「従業員?」

男は、で笑った。

「そうです。何か文句でも?」

俺が睨み返すと、男はショーケースのに並んだ惣菜に目を向けた。

「まさか、ここでまた商品発を?」

男の目が、細められる。

「これは、会社でやっていた研究とは切関係ありません!」

美咲が、俺の背から声を張りげた。

「私の識と、修さんの技術で作ったものです!」

男は、美咲の必の反論を笑で受け流した。

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「ならいいが。疑われるようなことは、しない方がいい」

男は、それだけ言い残してをていった。

男が帰った、美咲はしばらくそのからくことができなかった。

俺は、の入りに「準備」の札をかけ、シャッターを半分ろした。

「何があった?」

俺は、丸子を美咲に勧めながら聞いた。

「今度は、ちゃんと話してくれ」

美咲は、ゆっくりと子に腰をろした。

両を膝ので固く組んでいる。

「私は……会社で、豆を使ったしい健康品の商品発をしていました」

美咲は、ぽつりぽつりと語り始めた。

やはりそうだったのかと、俺は納得した。

だが、続く話は俺の像を超えていた。

「研究そのものは、好きでした。でも、研究所をて、実際の商品になる段階では、研究の成果だけでは決められないことがたくさんありました」

美咲のに、力がこもる。

「原価の削減、期限の縮、量産の計画……」

美咲は、唇を噛み締めた。

「私は、あるな商品の発責任者になりました。でも、発売を急ぐ会社側と、最まで全と品質のデータを確認したい私とで、見が真っ向から割れたんです」

「それで、会社を辞めたのか?」

俺が聞くと、美咲は首を横に振った。

「それだけじゃありません」

美咲の線が、奥の部で遊ぶ向へ向けられた。

「夫とは、その頃すでに婚していました。価値観の違いから、すれ違いが続いていて……」

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美咲は、自嘲気に笑った。

「向をで育てながら、研究所と保育園を往復する毎。何とかできるとっていました」

美咲の声が、しずつ震え始める。

「でも、できなかった」

美咲は、両で顔を覆った。

「仕事では責任者。に帰れば、きりの母親。どちらも途半端にしたくなくて、どちらもで抱え込みました。でも……最は、私の方が持たなくなりました」

美咲の肩が、刻みに震えている。

「会社を辞めた、貯を切り崩しながら再就職を探しました。でも、さな子供を抱えて、研究職へ戻るのは簡単ではありませんでした」

美咲は、顔をげて俺を見た。

その目には、涙が溢れていた。

「期のパートをつなぎ、賃が払えなくなってアパートをました。そして、このにたどり着いたんです」

美咲は、自嘲するように笑った。

「までたのに、けないですよね」

俺は、腕を組んで井を見げた。

「何がだ?」

俺は、真っ直ぐに美咲の目を見た。

「学歴で、子供が育つのか?腹が減ったに、の卒業証をわせるわけにもいかねえだろうが」

美咲は、驚いたように目を丸くした。

「ひどい慰め方……」

美咲の唇の端から、しだけ笑みが漏れた。

「慰めてねえよ。事実を言ったまでだ」

俺は、そっぽを向いた。

だが、問題はそれだけでは終わらなかった。

そのの午。

しく惣菜を卸す予定だった元のスーパーから、キャンセルの連絡が入った。

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話が、旦になったという。

さらに、もう件。

しく取引を始めたばかりのからも、取引止の申しがあった。

理由は、どちらも同じだった。

「品会社の元研究員が、突然始めた商品」

「会社代の技術やデータを、持ちしているのではないか」

そんな根も葉もない噂が、瀬の訪問をきっかけに、急速に広まり始めていた。

「私のせいです」

美咲は、再び暗い顔になった。

「違う。そんな噂、すぐに消える」

俺が気で言っても、美咲は首を振った。

「でも、私がいなければ。せっかくおに活気が戻り始めたのに、私が全部台無しにしてしまった」

美咲は、の奥で絵を描いている向を見た。

そして、さく、だが決を込めた声で言った。

「私たち、ていきます」

俺は、に血がるのをじた。

「……好きにしろ」

からたのは、そんなたい言葉だった。

引き止めたかったのに、どう言っていいかわからなかった。

美咲が、しそうな目で俺を見た。

俺は、目をわせることができなかった。

「今まで、本当にありがとうございました」

美咲は、々とをげた。

その夜。

美咲は、ない荷物をボストンバッグにまとめた。

翌朝。

俺が厨につに、は階段をりてきた。

向が、あのさなウサギのリュックを背負っている。

「修ちゃん」

向が、俺の元に駆け寄ってきた。

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「なんだ、向」

俺は、しゃがみ込んで向と線をわせた。

「もう、ここに来ちゃだめ?」

向の目に、涙が溜まっていた。

胸が、ギリリと痛んだ。

「向、ママのところに来て」

美咲が、向のを引いた。

「修ちゃん……向、ここ好きだよ。修ちゃんのお豆腐、好きだよ」

向が、泣きじゃくりながら言う。

俺は、何も言えなかった。

気の利いた言葉つ、見つけられなかった。

が、をていった。

引き戸が閉まる音が、異様にきく響いた。

が、再び静かになった。

「静かになっただけだ」

俺は、自分に言い聞かせた。

「元に戻っただけだ」

俺は、で豆を洗い始めた。

だが、夕方。

誰もいない卓には、つの子が並んでいた。

洗面所には、向のさなピンクのコップが置かれたままだ。

蔵庫の扉には、美咲が丁寧にいた仕込みのスケジュール表が貼ってある。

そして、の壁。

そこには、向がクレヨンで描いたの絵が飾ってあった。

俺と、美咲と、向。

俺の顔だけ、なぜか妙に角く描かれている。

「くそが……」

俺は、笑おうとした。

だが、顔の筋肉が引き攣るだけで、笑えなかった。

俺は、階にがった。

奥の部の扉をけ、由美と千の写真を見た。

俺は、ようやくわかった。

あの、美咲と向を助けたのは、が由美と千になったからだ。

過のを追っていただけだ。

でも、今俺がじているこの胸の苦しみの理由は、違う。

美咲がいないからだ。

向がいないからだ。

俺は、過のではなく、今きているあの自を失いたくなかったのだ。

、俺には何もできなかった。

突然の事故。

「ってらっしゃい」の言も言えないまま、族はいなくなった。

でも、今は違う。

今はまだ、にう。

俺は、掛けをし、をびした。

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