みかん小説
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"赤ペンで消した夫" 第3話

の原稿に潜む夫の指紋

静寂が、鼓膜を圧迫するようにく沈殿していた。 子は瞬きを忘れ、のの文章を、舐めるように何度も、何度も繰り返し読んだ。 誤字はない。文法な破綻もない。 それどころか、先ほどまで荒削りで息切れを起こしていた文章が、この面に入った途端、驚くほど滑らかで、洗練されたリズムへと変貌を遂げていたのだ。

違の正体は、文体そのものが内包する「固の癖」だった。 接続のに必ず打たれる、独特のいを持った読点。 「かすか」「あらかじめ」「すべて」といった、通常であれば漢字で表記される語彙を、あえて平仮名にく独特の選択基準。 そして何より、景の彩をの暗によって層に捉える、幾何学とも言える端正な修辞法。

子はこの文体をっていた。 っているどころではない。かつて編集部で同僚として机を並べ、互いの原稿を読みい、結婚してからの、彼が執した評や担当作の解説文を誰よりもで読み続けてきたのだ。 ――これは、黒沢也の文章そのものだった。

文章の癖というものは、の指紋や網膜の模様と同じだ。 どれほどの文体を模倣しようと、どれほどニュートラルを装おうと、無識のうちに選ばれる助の配置、息継ぎのタイミング、線の配り方には、そのが数ので培ってきた考の回が刻印されてしまう。

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なぜ、歳の女性作の原稿のに、歳の自分の夫の文体が、これほどまでにあからさまに、純度百パーセントで混ざり込んでいるのか。

子は原稿から顔をげ、暗に閉ざされた寝の方角を見つめた。 偶然の致だろうか。 いや、あり得ない。これほど度で完成されたリズムを、文章作法すらおぼつかないが、特定の面だけで突発に力できるはずがない。 編集者がの原稿にを入れること自体は、版業界において決して珍しいことではない。いわゆる「リライト」と呼ばれる指導の範疇だ。 だが、これは指導のレベルを遥かに逸脱していた。 作者の稚拙な文体を覆い隠すように、特定の景描写だけが、也のによって丸ごと挿入されているのだ。

たい悪寒が、背骨を伝って元へと駆け抜けた。 子は再び原稿用へと線を落とした。 問題の箱根の面。主公の男が、ロープウェイのでヒロインのえたを握り締め、元で囁く台がある。 『このままに呑まれて、世界からだけで消えてしまおうか』

子の臓が、ドクンと激しくねた。 息が詰まり、界がく滅する。 その台は――以、まだ社内恋を隠していた若きの也が、のに子を連れした箱根の旅館で、全く同じシチュエーション、全く同じシチュエーションので、子に対して囁いたの言葉そのものだった。

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(……嘘でしょう、也さん) 体の血液が、急速にえ固まっていく覚。 夫は、若い女性作の原稿を自ら代している。 それだけに留まらず、かつて妻と分かちった最も神聖で密やかなの記憶を、の説を美しく飾るためのっぽい具として、そのまま切り売りしているのだ。

翌朝。午。 台所につ子の元は、信じられないほど械で、静かだった。 まな板ので松菜を刻む包丁の音が、トントンと定のリズムを刻む。 汁のりが漂う、支度をえた也が寝から現れた。 糊のきいたいシャツに、寸分の緩みもなく結ばれたシルクのタイ。鏡で自分の横顔を確認し、満げに微笑むその姿は、絵に描いたようなエリート編集そのものだ。

「おはよう、子。今朝もえるね」 「おはようございます。お噌汁、温め直しますね」 子はの揺らぎを完全に押し殺し、穏やかな声音で応じた。 テーブルに着いた也は、子が差しした湯呑みを受け取り、際よく並べられた朝に箸を伸ばす。 「そういえば、昨夜渡した朝倉希の原稿だが、しは目を通してくれたかい?」

也が焼き鮭の切りをに運びながら、何気なさを装って尋ねてきた。 その瞳の奥に、わずかな探るようなが宿っているのを、子は見逃さなかった。

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子は茶碗を置き、也の目を真っ直ぐに見つめ返した。 「ええ。ページほど読ませていただいたわ」 「……そうか。どうだった?」 「とても……で、胸を打つ文章ね。特に、盤の箱根の描写。あのいのち込める肌と、たい空気の質。まるで、の辛酸を舐め尽くした、代の熟練した男性作がいたような、見事な致だったわ」

カツン。 也の箸の先が、陶器の皿に当たって乾いた音をてた。 彼の咀嚼のきが、瞬だけ止まる。 鏡の奥の瞳孔が微かに収縮し、喉仏がごくりと音をててした。 だが、男はすぐに百戦錬磨の笑いを張り直した。 「はは、そうかい? まあ、僕もかなりを割いて、徹底にリライトの指導を入れたからね。彼女はみ込みがいんだ。僕の文体をスポンジのように吸収しているんだろう」

「そう。あなたの指導の賜物なのね」 子はそれ以追及せず、静かに微笑んで自らの事に戻った。 也は居悪そうにで噌汁をみ干すと、「会議があるから」と言い残し、逃げるようにをてった。 バタン、とい玄関扉が閉まり、のに完全な静寂が戻る。

子はちがり、自らの仕事部へと向かった。 パソコンを起し、版の正用部アクセス回線へとログインする。 彼女はただ傷つき、泣き寝入りするような女ではなかった。

言葉の嘘を暴き、事実の瑕疵を正すのが正者の仕事であるならば――この欺瞞に満ちた原稿に潜むすべての嘘を、徹底に暴きしてやろう。 子の指先が、徹な決を込めてキーボードのを滑り始めた。

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