"跡取りを産めぬと追われた嫁と、姑の漆塗りの小箱" 第1話
朝まだ暗いうちから、蔵の根にはい湯気がちっていた。戸郊の町に、麹の甘い匂いが通りまで漂ってくる。
の欅の梢を赤とんぼがび交い、寺の鐘がけつを告げていた。幕府から酒造りを許された数軒の造り酒のうち、酒井もそのつである。
歳でこのに嫁いだおは、今でになっていた。表通りには参詣客を目当てにした茶や旅籠が軒を連ね、朝からのき交う声が絶えない。
その賑わいので、酒井の簾だけはいつも静かに掲げられていた。
おは台所で粥を仕げると、盆に乗せて奥の座敷へ運んだ。姑のお常はので半を起こし、おのを借りて粥をに運ぶ。
痩せた喉がゆっくりといた。
「今朝の粥は、いつもより柔らかくしてくれたんだね」
お常が言うと、おはさくをげた。今はし咳がひどかったので、べ終えるとおは夜通しで引いた煎じ薬を湯みに注ぐ。
お常は苦みで顔をしかめながらも黙ってみ干した。おはその元を拭いで拭い、額にを当てての具を確かめる。
汗ばんだ肌着を替え、乾いた綿入れを羽織らせて夜着の襟をえた。煩いの姑の世話は、もう順のつつが体に染みついている。
今でを過ぎたお常の体は、よりも回りさくなったようにおにはじられた。
広告
膳をげようとしたおのを、お常がふと止める。
「いつも苦労をかけてすまないね」
それだけ言うと、お常は疲れたように目を伏せた。おは何も答えずただをげ、膳を持って座敷をる。
酒井では、お常がを切り盛りしていた頃から、女将も釜と帳にはつ習わしがあった。膳をげると、おは蔵の釜へ向かう。
桶に汲んだ井戸でを洗い、甑の脇にしゃがみ込んだ。おは取りされた蒸し米をひと粒取り、指先でひねる。
表面は締まり、内には適度な柔らかさが残っている。蒸し加減に狂いはなかった。
蔵で働く配の杜氏が、おの指先のきを見てさく頷いた。
「さすが若女将。目利きが違いますな」
杜氏の言葉に、おは微笑んで礼しただけだった。それから米を研ぎ、具を洗い、酒袋を干しするなど、昼までもを休めない。
蔵の隅々まで、おの目が届かぬ所はなかった。蔵の隅で帳面をつけていた夫の聖治郎に、おは声をかける。
「今の蒸し米、いい塩梅にできましたよ」
聖治郎は顔もげず、頷いただけだった。酒井の跡取りとしてまれ、業を継いだ半ばの男である。
嫁いでから、おが業と姑をどれほど支えてきたかを、聖治郎はにしたことがない。
彼は戸のにまで酒を卸そうと倍の野を燃やしていたが、この、広げた商いの分だけ借も膨らんでいることをおはまだらなかった。
広告
昼を過ぎた頃、寺参りを終えた若い夫婦が、幼い子供のを引いて酒井のを通りかかった。
子供がにつまずいて転びかけると、母親がとっさに抱きげる。子供は母の腕のでケラケラと笑い声をあげた。
おは桶を運ぶを止めた。子供の笑い声とさな駄の音がざかっていく。
おの指先が、桶の縁を度だけなぞった。
聖治郎はその線に気づくと、慰めるどころかたく言い放った。
「見ているだけでは跡取りはできないぞ」
おは何も言い返さず、桶の取っを握り直すと再び仕事に戻った。
その言葉は奥の座敷まで届いていた。に伏せていたお常は目を閉じたまま、震える息をつ吐く。
痩せたが布団の端を握りしめ、井をじっと見げていた。
その夜、聖治郎は膳に箸もつけずちがった。
「夕飯はいらない。かけてくる」
おが理由を尋ねることはなかった。頃、聖治郎がこうして夜にかけていくのは初めてのことではなかったからだ。
聖治郎は羽織を引っかけると、誰にもき先を告げず暗くなった通りへていった。夜毎向かう先はいつも同じ、寺のにあるさな茶の裏である。
「遅かったじゃないの」
灯つの奥座敷で、さよと聖治郎はしばらく差し向かいで過ごした。
広告
おすすめ作品
-
完結第26話
特上寿司と、消えた妻の半年
3月31日22時、激務を終えて帰宅した私の席にあったのは、冷え切った白米一杯だけだった。目の前で1万8900円の特上寿司を頬張る夫と義母は、「反省したらおかずをあげる」と大笑いする。家計の大半を私が支えているにもかかわらず、9ヶ月間も「罰」として食事を奪われ、夫は横で嘲笑っていた。だが二人は知らない。私が半年かけて集めた出前明細の履歴と、義母が隠し持っていた一枚の申告書の存在を。「じゃあ、外で食べてきます」――二度と振り返らずにドアを閉めた夜、経理の私が仕掛けた冷徹な清算が幕を開ける。嫁姑|夫婦4.0万字5 607 -
完結第34話
妻の葬儀の夜、義母が外した指輪と娘の写真
妻・美保の葬儀が終わった夜、修二の結婚指輪を外したのは、亡き妻の母・麗子だった。「もう美保に隠す必要はないでしょう」と唇を寄せたその瞬間、娘・咲から1枚の写真が届く。そこには半年前の病院で抱き合う修二と麗子、そしてガラス越しに2人を見つめる病衣姿の美保が写っていた。 闘病中の妻を支える献身的な夫を演じながら、修二はいつしか自分の弱さを理解してくれる義母へ逃げ込み、越えてはならない境界を越えていた。しかも麗子は「美保も知っていた」「私がいなくなったら修二さんを1人にしないでと頼まれた」と主張し、その証拠となる録音まであるという。 だが翌朝、咲が告げたのは「お母さんの声を最後まで聞いて」という一言。 亡き妻が本当に残した言葉を前に、2人が都合よく信じてきた“許し”が崩れ始める――。夫婦|修羅場5.1万字5 761 -
完結第14話
「死産」と告げた院長と20年目の出生記録
20年前、出産した娘を「死産でした」と告げられた私・佐藤しず子。しかし私は、麻酔の中で確かに聞いた産声を一度も忘れられなかった。 真実を確かめるため、私は清英産婦人科医院の清掃員として20年間働き続け、誰にも気づかれず院内の秘密を探ってきた。そんなある夜、若い看護師から「まだ間に合います。あなたの娘さん生きています」と書かれた紙を渡される。 やがて地下の保管庫へ忍び込んだ私は、自分の出産記録の隣に「佐藤女児――転送」と記された手帳を発見する。 さらにそこには複数の新生児と金銭の記録まで残されていた。娘を奪ったのは誰なのか。そして病院は20年間、何を隠してきたのか。見下され続けた“掃除婦”は、集めた証拠を手に院長・安藤剛と対峙する――。真相|修羅場2.1万字5 429 -
完結第15話
二十人分の祝い膳を押しつけられたので、家を出ました
義母から「家族のお祝いだから」と押し付けられたのは、二十人分の料理作りと高額な費用負担。 夫も義妹も、私を一人の家族ではなく、都合よく使える存在として扱っていた。 五年間、我慢し続けた嫁・美咲は、ある決断をする。 それは、義妹の息子の一歳祝いの前日に、すべてを捨てて家を出ることだった。 しかし、静かに準備を進める中で、美咲は夫と義母が隠していた驚くべき事実を知る。 そこには、単なる身勝手な家族関係では終わらない、彼女を縛り続けるための計画が隠されていた。 そして迎えた祝いの日。 親戚二十人が待つ食卓に残されたのは、豪華な料理ではなく、誰も予想しなかった「空っぽの祝い膳」だった。 奪われ続けた人生を取り戻すため、美咲が選んだ静かな反撃とは――。嫁姑|親子関係|修羅場2.2万字5 286 -
完結第22話
側溝の底のGPS
六年前に娘を事故で亡くし、近所から「不注意な母親」と後ろ指を指されながら暮らしてきた私。ある朝、向かいの名士宅との境界にある側溝の泥から、泥まみれの「娘の見守りGPS」を掘り出した。壊れた端末のログを開くと、六年間、豪雨の深夜になるたび、向かいの家のWi-Fiと通信を繰り返していた。問い詰めた夫が無言で開けた物置には、壁一面に貼られた隣家の行動記録と、五年間密かに改造されていた配管図面があった。ミステリー|因果応報|裡切られた|真相3.3万字5 257 -
完結第29話
300億円が消えた結婚式
クロスも皿もない暗い宴会場で、タキシード姿の兄が一人ぽつんと座っていた。「お兄ちゃん、えりさんは来ないって。結婚も式も全部ドッキリだったって」――それが、私の43歳の兄・琢磨が味わった地獄の始まりだった。 東和中央銀行の会長である父親やその家族は、年収620万円の建材会社主任である兄を「庶民」と見下し、前日の夜に勝手に式をキャンセルした上に、その屈辱的な一部始終を動画に収めて嘲笑っていたのだ。しかし、彼らは知らなかった。兄を虫けらのように扱ったその銀行に、私の経営するグローバル企業「ミレイビューティグループ」の全資産である300億円が預けられているという事実を。10年前、無一文だった私に兄が差し出した1000万円の連帯保証人の借用書が、今、静かに引き出しの奥から取り出される。 人間を肩書きと金だけで測り続けた傲慢な一族に、私が下す「本当の審判」とは一体何なのか。すべてを奪われた男の背後に隠された巨大な逆転劇が、今、幕を開ける。兄弟姉妹|真実4.4万字5 165 -
完結第11話
五十万円の便利妻
義父の四十九日を終えた日曜の朝、商社の係長へ昇進した夫から緑の離婚届を突きつけられた。「腰を壊したお前は出世の邪魔。手切れ金50万で出て行け」。4年間、排泄の世話まで一人で背負い続けた私を、夫は「無償の介護要員」として切り捨てたのだ。愛人とタワマンへ移る気満々の夫。だが、冷え切った私の手元には、四年間の一切を記した【介護日誌】と、義母から託された反撃の鍵が握られていた。因果応報|裡切られた|介護|金銭問題|不倫1.7万字5 121 -
完結第15話
義母ATM、全財産を失う
妻を臨月の過労で倒れさせながら、平然と「嫁の勤め」と言い放つ義母。夫は怒りを押し殺し、法事の席で母の隠し財産とリフォーム費用の着服を暴く準備を進めていた。しかし、母が仕掛けた会社への嫌がらせの裏には、亡き義父が隠し通した衝撃の過去が眠っていた。真実が明かされた時、毒親の描いた完璧な老後計画は完全に崩れ去る。相続|真実|絶縁|金銭問題2.2万字5 117 -
完結第21話
臨月に捨てられた女医、18年後の審判
妊娠10ヶ月の臨月を迎えた夜、エリート医師の夫・俊彦は「愛人が跡継ぎの男児を身籠もった。高齢のお前が産むのはどうせ障害児だ」と哄笑し、離婚届を突きつけて私を極寒の路頭へ叩き出した。12年の不妊治療の末に授かった命を呪われ、医師のキャリアも奪われた私。だが18年後、地方病院のロビーで零落した元夫と愛人に再会する。悪態をつく元夫に対し、私が「そこの世界的天才バイオリニスト、私の娘ですが」と告げた瞬間、屈強な男が現れて――。夫婦|真実3.1万字5 85 -
完結第21話
日本一情の深い父の裏の顔
妹がサービスエリアで姿を消して5年。全国を巡り「日本一情の深い父親」と称賛される父から、私は古いワゴン車を譲り受けた。だが車内の清掃中、妹の指定席だったシートベルトが事故の衝撃で「4センチ」伸びきっているのを発見する。さらに奥底から見つかったのは、刃物で切断された妹の防犯ブザーだった。父に問いただすと、かつてない冷酷な声で「今すぐ車を処分しろ」と脅され――。私は父の狂気と真実を暴くため、ある決断を下す。ミステリー|裡の顔|真相|行方不明3.1万字5 75